「日本領有の証拠」 大浜が発見
1968年、エカフェ(アジア極東経済委員会)による海底調査で尖閣近海に豊富な海底資源の存在が指摘されると、一挙に世界中から注目を集め、不法上陸の続発が問題となった。南方同胞援護会会長の大浜はすぐさま手を打った。『大濱信泉』によると、日本政府に働きかけて数年がかりの油田開発調査に着手。尖閣が石垣市に属することを明示するため、南方同胞援護会が主導して地番標識を建立した。さらに領有権を巡る係争に備えて、国際法の専門家らによる尖閣列島研究会を発足させた。このあたりの着眼点、スピーディーさは、敗戦直後に極東国際軍事裁判研究会を発足させた大浜ならではのものだ(連載①参照)。
1970年12月4日の衆議院外務委員会。西銘順治議員(自民、のちの県知事)が、「この感謝状を発見したのが大浜信泉」だと紹介したうえで、尖閣に対する政府見解をただした。
答弁に立った外務大臣愛知揆一は、尖閣は当然日本領との認識を示し、大浜が感謝状を発見した経緯について補足した。「中華民国の長崎駐在馮領事から感謝状を出しているということは私も承知しておりましたが、この感謝状についてあらためて大浜さんが10月12日に石垣市を訪問しましたときに、牧野清元石垣市助役からその写しを入手された。そして、これについてただいま西銘委員から御指摘がございましたことを、あらためて政府としても感謝いたす次第でございます」
感謝状贈呈は当時から公ではあったが、国際法にも通じた大浜が村長豊川と親戚だった縁で、歴史の表舞台に出た。感謝状の件を知っていた大浜が故郷に足を運んで手にし、価値判断を下したのだ。この意味で、感謝状を「発見」したのが大浜だったことは間違いない。
この時開かれた国会は、特別な意味を持つ国会だった。沖縄は依然、米軍占領下だったが、日本復帰(再併合)に備えて初の国政選挙が行われ、当選した西銘(自民)らが初めて登院。復帰の在り方を問い、さらに復帰後の沖縄政策の道筋をつける議論で白熱した。西銘は東大在学中に学徒動員され、復員して卒業後、外務省に入省したキャリアを持つ。外交分野に明るい西銘は、愛知外務大臣とあうんの呼吸で、尖閣領有の正当性を国内外にアピールした。
大浜率いる尖閣列島研究会は、季刊誌『沖縄』第56号(71年3月号)に感謝状の件も収録して特集号を組んだ。国会質問からわずか3か月後だ。極東国際軍事裁判研究会メンバーだった入江啓四郎(米ハーバード大学教授やアメリカ歴史学会会長などを歴任した入江昭の実父)も寄稿したその特集号は国内外から反響が大きく、台湾や米国からも注文が舞い込んだことから、続編の特集号(第63号、72年12月)も公刊した。
日米間で「沖縄返還協定」が正式決定、尖閣諸島も対象地域に含まれた。同時発効された日米地位協定に基づき、尖閣の久場島・大正島は射爆撃演習場として引き続き米軍に提供されることが決まった。