初代最高裁裁判官になれなかった大浜信泉⑤異国船出没 翻弄される八重山(中)

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米大陸カリフォルニアで金鉱が発見されてゴールドラッシュに沸くと、西海岸開発に伴う大陸横断鉄道の敷設に労働者がかき集められた。おりしも奴隷解放が叫ばれたころで、黒人労働者の代替に、アヘン戦争によって弱体化していた中国から10万人以上が海を渡った。アフリカ黒人を商品とした「奴隷貿易」に代わる「苦力貿易」だ。数多くの苦力貿易船が琉球近海を行き交った。1852年、そのうちの一隻、ロバート・バウン号(米国船)が厦門を出て間もなく、反乱がおこった。船長らが辮髪を切ったり、裸にして冷水を浴びせたり、瀕死の病人を海に突き落とすなどしたため、怒った苦力らが蜂起。船長らを殺害、船を奪い逃げる途中、石垣島沖で座礁、苦力390人近くと米国人1人が石垣島に上陸した。生き残っていた船員らが隙を見て船を奪い返し、厦門に逃走。置き去りにされた苦力らは、琉球王府の処置規則に従って島役人らが手厚く保護した。

厦門の米国領事は、近海に米艦が見当たらなかったことから、英国領事に依頼して英軍艦2隻を急派。英艦は苦力が収容されていた小屋に威嚇射撃を加え、武装兵200人余が上陸、1週間近く捕縛戦を繰り広げて数人を射殺・連行し、引き上げた。すぐに米国艦サラトガ号が来襲、米兵100人余が勝手に民家に踏み込むなどし、50人余を捕らえ去っていった。銃殺や病死、飢餓や絶望のあまりに自殺者も続く。琉球王府は匿っていた苦力の送還を巡って、清国と英米との間で板挟みに。清と英米外交官らの間で交渉がまとまり、琉球が用立てた2隻に苦力らを乗せ、厦門へ。途中、海賊に襲われて50人近くが四散、いかに危険な海域だったことがわかる。漂着から1年半後、最終的に帰還したのは125人。銃殺や自殺などで30人近く死亡、病死は90数人。惨劇が伝わった厦門から、苦力貿易反対運動の狼煙が上がった。

この事件の余波があまりに大きかった。苦力捕縛戦を演じた米艦サラトガ号が翌年、ペリー艦隊の一員として那覇港に姿を現したのだ。その情報が幕府に伝わり、追ってペリー艦隊が江戸に入った。「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」。幕末に流行したその狂歌で挙げられた一隻がサラトガ号だったのだ。

中琉関係史研究者の西里喜行(琉球大名誉教授)は指摘する。「薩摩藩や幕府の当局者の目には、サラトガ号兵士の石垣島への武装上陸はペリー艦隊の日本上陸の予行演習のように見えたのではなかろうか。ペリー提督の要求を拒否した場合、どのような事態が生じるかを、幕府の当局者たちはサラトガなどの石垣島来襲によって十分予測できたものと思われる」(『バウン号の苦力反乱と琉球王国』)。艦砲射撃に続いて武装兵が江戸城に向かって進軍してくるという恐怖感が、「鎖国」を解く遠因となっただろう。幕藩体制を揺るがしたロバート・バウン号事件は、大浜信泉の生まれるわずか39年前のことだ。

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