豊川善曄 アジア融和の志
だが、この感謝状の件を論じる前に、豊川善曄が抱いたアジア融和の志を知っておく必要がある。
漂着者救援に尽くした豊川善佐の息子・善曄はアジア史に足跡を残した。二十歳のころ、日本と中国(中華)の親善はアジア復興の契機になると思い、幼名の「善可」を「善曄」と改名した。日本の「日」と中華の「華」の文字を組み合わせた「曄」に、その願いを込めた。
東京高等師範を出た後、修身・教育・地理・歴史の中等教育免許状を持って、那覇・東京・山梨・青島(中国)・新潟などで小学校や中学校の教師・校長を務めた。地理分野に関心が高く、その発想の特徴は街づくりや振興策を広域で考える点だ。居住地を拠点に、周辺地を視野に入れた広域の都市計画を構想した。新潟勤務時に「大新潟建設論」、山梨で「新吉田建設論」、朝鮮では「京城遷都論(首都を東京から京城=現在のソウル=に移す)」(注1)。いずれも書物にまとめ世に問うた。
さらに興味を引くのは、教職のかたわらエスペラント語普及に励んだことだ。「日本エスペラント運動人名事典」(ひつじ書房)では中項目の扱いで、その名前も他よりも目立つようゴシック体で印字されている。1922年、日本エスペラント学会を発展させて「財団法人エスペラント同人社」を設立、豊川が企画した東北北海道宣伝旅行隊を成功させて注目を浴びた。母語の異なる人々が意思疎通を図るために考案されたエスペラント語はその「無国籍性」や「国際主義」が、各国の全体主義的政府から弾圧・迫害されていた。豊川の講習会には警官も紛れ込み、その状況を記述した内務大臣ら宛の報告書が国立公文書館に現存している点をみても、かなりマークされていたことがわかる。
エスペラント運動に関わり始めたころ、関東大震災に遭ったことが転換点となった。炎と瓦礫の混乱の中、朝鮮人暴動の流言飛語が飛び交い、無辜の朝鮮人が虐殺された。言葉のアクセントや風貌から日本人ではないと疑われた沖縄出身者も多く、虐殺例も報告されている。豊川からエスペラントを教わった比嘉春潮(歴史家)によると、「豊川善曄君も隅田川の橋の上で、自警団に朝鮮入でなければ『君が代』を歌ってみろと歌わせられた」(『沖縄の歳月』)。日本人に日本式教育を施す教師(校長)だった豊川にすれば、これほど屈辱的なことはない。模範的日本人になりきろうとしたこれまでの努力がいかに無意味であったか、また同胞たる朝鮮人が惨殺されたことを耳にし、帝国日本の内実がなんたるものかを思い知ったはずだ。
勤務していた順天中学が全焼、相当数の解雇者を出したこともあって、山梨県吉田に移住。帝都復興が農村から搾取する形で構想されたことに憤り、「農民之日本社」を設立して農業に根ざした社会づくりに励む。しかし思わぬ風評に遭った。「どういふ者の悪戯からか、『豊川が〇〇主義者として○○された』といふ報道が全国の新聞に出た。之は全然根も葉もないことで、自分は○○主義者でもなければ、まして○○されたことなど全然ないことであった。そこで早速自分は是等の記載新聞社へは取消しを出したけれども世間は誤報を信ずる習はしであるから、助からない。教員復職のことも之で見込みなくなった」(「思出の記」)。生活に困窮、故郷に戻り、県立第三中学校に職を得た(注2)。満州事変が勃発、社会状況が一変。京城で開かれた学会に参加した折に大陸を視察、再び興亜の夢がもたげ朝鮮に活動の場を移した。
京城帝国大正門前に興亜学院という私立の実務学校を建て、自ら学院長として朝鮮人師弟の教育に携わった。営んでいた書店・印刷所では、県立三中時代の教え子らが仕事を手伝った。ここから父善佐の『自叙伝』を発刊。41年8月17日、肺結核のため死去、享年54歳。3カ月後の日米開戦を知ることなく、故郷石垣島から遠く離れた朝鮮の地で逝った。若き日に、善曄の背中を見て育った大浜は、その死を聞いて何を思っただろうか。
善曄の生涯は起伏に富み、陰影を帯びている。日本人が抱く優越感について、「自ら朝鮮人とか支那人とか、穢多とか非人とか云って他を軽蔑し乍ら世界に向かって人種差別待遇撤廃など云ふのは聞いてあきれる」などと批判する。一方で、「日満支極東ブロック」「大亜細亜連盟」といった彼の志向には、日本を盟主とした帝国主義的な側面も内包されていた。欧米列強に対抗するために「大亜細亜主義は日本永遠の方針であるが、当分隣邦の成長する迄は大日本主義となり独力事に當る覚悟丈はやつておかねばならない」と書く。当時のアジア主義者が宿命的に抱えていたアンビバレントな面もあったことは確かだ。善曄については本格的な研究・評伝がないため、その評価は定まっていない(注3)。ただ、未曽有の世界大戦に突き進んでいく激流の中で、自己の立ち位置を見定め、時代を切り拓こうと格闘したことには意義を見出してしかるべきだろう。
今の世に、豊川善曄が姿を現して、尖閣のような小島を巡って隣国同士が争うのを見たら、何と言うだろうか。「尖閣は誰のものでもなく、皆のものだ。アジア海域を守る救難基地、治安を維持する国際組織を置いてもいい。そして国連アジア本部や東アジア共同体本部を誘致して、平和アジアの首都にしよう」。広い視野で共栄に向けた大胆な構想を打ち出したに違いない。父がもらった感謝状は古から日本と中国はお互い助け合ってきた友邦である証だとして、広く世に知らしめたはずだ。すくなくとも、尖閣の日本領有を声高に叫んで対立を招くことだけは決してしない。

(注1)善曄は書きためていた遷都論を基に『京城遷都論』(興亜堂書店、1934年)を発行、付録「思出の記」も収録した。2000年に景仁文化社から『京城と金剛山・京城遷都論:韓国地理風俗誌叢書』として復刊されている。
(注2)郷土史教育に力を入れていた豊川は「魂のルネッサンス」という一文を書き、郷土史教育の目的を次のように示した。「沖縄郷土史教授の骨子は何かときかれたら私は「魂の振興である」と答へたい。薩摩入以来抑へつけられて萎縮してゐた我々の民族魂を解放して元の通り元気よく活動させるにあると云ひたい。(中略)今日の状態は如何、溌刺たる往事の面影は何処にかある、これ皆同化々々といって角を矯めて民族魂を殺した為めである。吾々は尚真王時代に一大飛躍をなし又察温時代に黙々として牛の如く働いて来た過去の民族魂が目を覚まし新沖縄建設の原動力となる時に至らざれば本県は救われないと信づる。郷土史は吾々の失はれた精神を呼び起こし自力更生の力とならしめるものである」
(注3)基礎的研究として、城間有『豊川善曄論』、照屋信治『近代沖縄教育と「沖縄人」意識の行方』ある。また豊川善曄の甥・豊川善一が私家版『わが伯父の断章』(西原町立図書館新川明文庫収蔵)を残しており、連載ではこれらを参照した。