沖縄保守政治家の矜持~追悼 翁長知事

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沖縄の運命に受け身でいいのか

 

翁長氏は当時、どんな思いだったのか。08年、翁長氏は筆者の取材に「米軍再編で沖縄の運命みたいなものが頭越しに決められていくこと」への強い焦りがあった、と吐露した。

「ただただ受け身のままで米軍再編が進むのは見ておれなかった。県民が少しでも主体的にかかわったことを残しておかないといけない、沖縄の将来の米軍基地の在り方に一石を投じられないか、との思いがありました」(翁長氏)

日米政府が0510月に発表した米軍再編「中間報告」で辺野古沖を埋め立てる従来案が一方的に破棄され、地元の頭越しに現行案に変更された。これに伴い、稲嶺知事が98年の知事選公約で県内移設の容認条件に掲げていた「15年使用期限」なども反故にされた。自民党中枢や防衛省幹部らと掛け合い、「県民の思いも公約に入れさせてもらわなければ選挙結果に責任をもてない」と訴え、政権周辺から「15年使用期限」を公約に盛り込む了解を取り付けるため奔走したのは翁長氏だった。

だが、沖縄を代表する保守政治家である翁長氏や宮城氏と、気脈を通じる本土の保守政治家は表舞台から消えつつあった。

普天間飛行場へのオスプレイ配備反対を掲げ、129月の県民大会で集結した超党派勢力は、配備後も維持された。131月、県内全市町村長と議長らが参加する要請団が東京・銀座をデモ行進した際、旭日旗を掲げる団体から「売国奴」「中国のスパイ」「日本から出ていけ」などと罵声を浴びた。

当時那覇市長として要請団の中心にいた翁長氏は、本土の無理解を痛烈に胸に刻んだ。「沖縄の自己決定権を確立するしかない」。この目標に向かうとき、翁長氏の中で県内の保守・革新を隔てる壁はなくなっていた。しかし、「オール沖縄」を掲げて民意の結集を図り、14年の知事選で圧勝した翁長氏にも、「本土の壁」を破ることはできなかった。

「翁長知事逝去」の報が入る数時間前。与党県議らが宮城氏を訪ね、次回知事選での継続支援を要請した。翁長氏が立候補できないケースも考慮せざるを得ない状況での協力依頼に、宮城氏は首を縦に振ることはしなかったという。

翁長氏は死の直前、自身の後継候補として、会社経営者の呉屋守将氏(69)と、沖縄3区選出の自由党の玉城デニー衆院議員(58)の2氏の名前を挙げていたことが、その後判明、玉城氏が立候補に前向きな意向を示した。これにより、「イデオロギーよりアイデインティティー」を唱えた翁長氏の遺志とともに、「オール沖縄」の灯は引き継がれる可能性も出てきた。

沖縄では今、辺野古の米軍基地建設だけでなく、先島への自衛隊配備も進む。沖縄と本土の関係が潮目を迎える中、国策に向き合いながらいかにして「地元の真の利益追求」を図れるか、「保守」のスタンスは沖縄でも問われている。

【本稿は『週刊アエラ』827日号を一部編集の上、転載しました】

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