立ち返るべき民主主義とは

この記事の執筆者

等身大の民主主義の歴史を求めて

 

別に、遠山の文章を紹介したのは、ある意味で遠山の期待を裏切るようになった現実を際立させるためでも、または「本土」への反省材料を提示せるためではない。歴史が語りかけるもの、または現在的関心でつくられる歴史像は、その都度変わるということが言いたいからである。やや語弊がある言い方をすれば、弱さを嘆いたり、伝統の厚みとして誇りをいだいたり、歴史は思い出し方いかんでいかようにも描くことが可能である。

 さて、先ほど世界的と書いたが、このように背伸びせず、日本の現状を確認しても、その混迷を指摘することができる。それでは、衆目一致して振り返る民主主義の歴史が日本にはあるのだろうか(自由民権運動があるという人もいるかもしれないが、憲法と同じく日本の民主主義は与えられたものと自嘲する人もいよう)。「民主主義の歴史の弱さ」を嘆くことも可能であるが、あえて、“起点”を探す必要があるのかどうか考えてみたい。このように考えたとき、私の脳裏をかすめるのは、坂野潤治の「吉野(作造…引用者補注)にとっての自由民権運動は、学ぶべき民主化運動の伝統ではなく、大正デモクラシーを光らせるための「半面教師」であった。…わざとすら思える二、三〇年前の自国の歴史の忘却と蔑視から、彼らが「零から出発」したことこそが、大正デモクラシーの定着を妨げたのである。…日本にデモクラシーの伝統がないのではなく、日本の知識人によって絶えずデモクラシーの伝統が消し去られてきただけではなかろうか。」(『日本政治「失敗」の研究』)という文章である。坂野の文章は吉野の限界を批判した戦後の政治史家を批判しつつ、吉野も自由民権を過小評価しており、日本の民主主義の歴史を「等身大の思想」として理解しない思考方法を批判し、改めて、吉野の思想を熟読玩味せよという主張である。

 民主主義の歴史を探ることを考えた際に思い出した坂野の文章であるが、人はややもすると「等身大の思想」(歴史)を学ぶよりも、ルフェーブルのように鼓舞する文章を欲する傾向がある。とはいえ、最近は忘れがちであるが、こうした「誇り」系の文体以外にも、丸山眞男の文章、または沖縄に注目しても大田昌秀の近代沖縄政治史の叙述のように沖縄の人に大勢順応的な行為に向かわせる「事大主義」的なものを重視する文体もある。

 輝かしい起点があるのか、それとも、現在を拘束する負の遺制が続いているのか、こうした錯綜は流動的な現在がなせる技であって、歴史に罪があるわけではない。とはいえ、歴史的に考察することは面倒であるといって、(もちろん、時評の意義は認めるが)現状の局面だけを見ると、現状追認的で短絡的な一喜一憂の繰り返しになりかねない。

この記事の執筆者