立ち返るべき民主主義とは

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今度の沖縄県知事選挙の評価軸を考える

 

以上長々と寄り道的な文章を書いてきたが、何が言いたいのかというと、例えば、オール沖縄を支持する立場だと、今年3月の名護市長選挙の結果と佐喜真淳候補が当選したのなら、大田の筆法を踏襲したような「事大主義」の継続として批判的な文章を書いたであろう。とはいえ、9月の沖縄県知事選挙の結果をみれば、こんどは断絶的/跳躍的な文章として沖縄政治の現状を書くことができるであろう。つまり、民主主義の歴史の一環として今回の知事選挙を解釈するとき、現状の結果を意味付けする人と、意味付けを欲する人たちとの協業によってなされるものであって、自明的に存在するものではない。事大主義的な連続―嘆きの歴史からすれば現状は断絶説になるが、島ぐるみ運動を起点にする連続―誇りの歴史もある。このように考えると、沖縄にとって等身大の民主主義の歴史とは何かを考えてみると、ある意味で唯一の「正体」がないところから出発する必要がある。

ここで本題の出発点になる今回の沖縄知事選挙に戻ると、玉城候補当選の背景や意義については多数の論評が発表されているのでここでは避けるが、たしかに玉城候補と佐喜真候補の8万票の差を重視するのか、それとも佐喜真候補の31万票を重視するのか、それとも投票率63パーセントに注目するのか、細分化した玉城候補への投票理由を重視するのか、ある事実に意味を付与することで、もう一方の事実から発する信号を軽視することがあるので、気をつけなければならない。ようは原因と帰結がもたらすものは絶えず流動的であり、今回の選挙結果から出た結論は玉城知事誕生だけでなく、別の帰結がでるということである。選挙結果によって、簡単に嘆いたり、満足したりしないことが民主主義を学び活かす要諦であろう。

等身大の歴史を学び、その向こうにあるもの

 

もとより、玉城知事誕生を「等身大の沖縄の民主主義の歴史」に即して評価するにはまだ不明の部分があるし、対象とする時間幅で変化するところがある。そもそも「等身大の沖縄の民主主義の歴史」とは一筋縄ではいかない多数の事実がふくまれており、問う側の力量が問われる。歴史を振り返り、襟を正すことも大事であるが、歴史は偏見を是正するために学ぶのであって、自身の行動の正統性を得る神話を見つけ出すために学ぶのではない。後年歴史に記されるであろう、自身がおこなうその後の実践について思いを深めつつ未来に進むことが必要になる。

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