辺野古「反対多数」~沖縄ルポで見えた県民分断のまぼろし

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鳥肌が止まらなくなる

 

私の「引っ掛かり」をもう少し詳しく書くとこうなる。

よく沖縄に精通した論客、政治家は「複雑」という言葉でこの島の現実を表現する。なるほど確かに複雑だ。

 一例を挙げよう。前知事の翁長雄志は、かつて自民党沖縄県連の雄として知られた政治家だった。「基地反対派」のドンとも言える大田昌秀知事(当時)を舌鋒鋭く批判した県議会での追及は、今でも語り草になっている。

 その翁長が普天間飛行場の辺野古移設反対、「イデオロギーよりアイデンティティー」を訴えて、基地反対派も巻き込み14年の県知事選で圧勝する。翁長は米軍基地そのものに反対はしなかったが、「これ以上の基地負担=辺野古新基地建設」にはかつてないほどの抵抗を見せた。

 ここで問うてみたいのは「複雑」とは何を意味するのか、である。「複雑」という言葉は便利なもので、前述のように翁長の経歴をたどりながら「民意は複雑だ」と言えば、それだけで何か語った気にはなれる。だが、それだけでしかない。

 私が知りたいのは表層的な政争以上のさらに奥にある現実、「複雑」の心底に何があるのかだ――。

那覇空港に到着してから真っ先に宮里を訪ねたのは、彼女が『宝島』の公式サイトに寄せた推薦コメントを読んだからだ。それは気になる言葉だった。「私の年代では記録といえる戦後復帰時代の話ですが、肌がちりつきました。読み進めるにつれ鳥肌が止まらなくなるのは、私が沖縄人だからでしょうか?」

 「沖縄人」を「日本人」に置き換えると、インターネット上でよく見掛けるナショナリストの言葉に接近する。だが、彼女のコメントはそんな単純なものではないように思えた。一体何が違うのだろう。

 宮里はこの小説を読み昨年26日、85歳で亡くなった祖母・与儀ツル子を思い出したのだと語った。県中部・うるま市で生まれたおばあちゃんは、と彼女は語りだす。戦前、一家で沖縄からサイパンに移住したが、戦争が激化するなか、家族は次々と亡くなった。

当時、小学生だったツル子は妹と2人で逃げ延びたが、周囲にいた見知らぬ大人たちに集団自決の輪に加わるよう迫られた。生きて米兵に捕まっても地獄が待っていると説得された。真ん中に置かれた手榴弾が爆発し、大人たちが死んだ。妹も死んだ。彼女だけがただ1人、生き残った。

 小学校の課題で、宮里が祖父母の戦争体験を聞いたとき、ツル子は涙を流し後悔の思いを語っている。「自分のせいで妹は亡くなった」。彼女は親族を頼って沖縄に戻った。

『宝島』の舞台になった戦後のコザ市(現・沖縄市)に住み、新聞を読みながら言葉と社会情勢を学んだ。免許を取得し、トラックの運転手として働きながら、3人の子供を女手一つで育て上げた。その1人が宮里の母だ。「戦後の女、ですよね。この小説の中に出てきてもおかしくない」と彼女は思う。

小説『宝島』が飛ぶように売れている、と言う宮里ゆり子(リブロリウボウブックセンター) PHOTOGRAPH BY KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

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