2019年、大流行中のタピオカドリンク。沖縄にも「ゴンチャ」「KOI Thé」など台湾発の店舗も進出し、再びブームがやってきました。那覇の有名観光地「国際通り」を歩いていても、タピオカドリンクを片手に歩く人たちの姿を見かけます。
1912年に沈没した英国の豪華客船「タイタニック号」でも食べられていたほど、世界で広く親しまれている食材の一つです。沖縄でもタピオカは戦前から戦後すぐにかけて栽培されていたらしいのですが、今ではほとんど見かけません。なぜなのでしょうか。
兵隊さんにタピオカまんじゅう
1984年8月の沖縄タイムスの紙面に、78歳の女性からこんな投稿がありました。
まだ沖縄で地上戦が始まる前の1944年、女性が当時38歳だったころの話です。
「当時小学四年生の息子が兵隊さんを自宅に連れてきました。ちょうどタピオカからたくさんのでんぷんをとっていましたので、それと砂糖でまんじゅうをつくってあげました。大変、喜んでくれました。タピオカまんじゅうがきっかけで毎日のように遊びにきました」
「戦況が悪化するにつれて兵隊さんの口数が少なくなり、台湾への移動が決まったときは重っ苦しい雰囲気でした。別れのあいさつにきたとき、兵隊さんは『部下がシークヮーサーを欲しがっている』と言ったのを覚えています。だが、シークヮーサーがなかったので、タピオカまんじゅうをつくってもたせました」
「戦後、一度は訪ねてこられたそうですが、再会できませんでした。タピオカまんじゅうがとりもつ縁でしたが、元気な間に会ってみたいと思います」
タピオカを通して、戦前にも「日常」があったことがよく分かります。沖縄では、芋と同じくらい多く作られていて、デンプンが75%も含まれているタピオカは、主食品として喜ばれていました。紙面には、沖縄戦中、食料が底をつき「タピオカのカスを水に浸して子どもに与えた」という投稿もあります。
沖縄大百科事典によると、タピオカは1951年ごろまでかなり栽培されていたようですが、「サトウキビ」のブームに押され、タピオカを生産する農家が少なくなっていったようです。