1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終わった。76年前、地上では住民を巻き込んだ熾烈(しれつ)な戦いがあり、海上でも沖縄戦は繰り広げられた。沖縄から疎開する学童を乗せた船や輸送船は攻撃され、多くの沖縄県民が犠牲になった。そして、日本軍は米軍の艦隊に体当たりする特攻隊を出撃させ、戦艦大和などの水上特攻も送り込んだ。その命令は、沖縄から約1500キロ離れた慶應義塾大学の日吉キャンパス(神奈川県)で下されていた。なぜ、日吉だったのか。
日吉キャンパス
1937年にできた日吉キャンパスの寄宿舎は、当時「東洋一」と称されるほどの建築だったという。
設計は、戦後、東宮御所、帝国劇場をはじめ、国立沖縄戦没者墓苑も手がけたモダニズム建築家の谷口吉郎氏。寄宿舎は、北・中・南の3棟から成るコンクリート造りで、最新の床暖房、水洗式トイレを完備し、全面ガラス張りの「ローマ風呂」、食堂や談話室もあった。
学生たちが使ったのはわずか7年。連合艦隊司令部がこの豪華な寄宿舎を占拠した。
連合艦隊、慶応日吉キャンパスへ
1944年7月サイパンが陥落した。サイパンから日本本土の距離は約2400キロ。B29が爆弾を積んで日本までの往復が可能な場所だった。米軍は日本本土を狙える距離にある基地を確保し、日本軍は本土決戦の準備を始めなければならなくなった。
戦況が悪化する中、連合艦隊は陸に上がることを余儀なくされた。
日本の海軍は、戦艦から指揮を執ってきた歴史がある。日露戦争で東郷平八郎が艦隊の先頭に立ち、バルチック艦隊を破ったことが影響している。しかし、工業化が進み、海軍でも航空母艦を主体とする艦隊が主流になったことで、戦況はじめ、空も海も把握した上での立体的な指揮が必要となった。さらに、司令部が戦艦の先頭にいるほうが危険にさらされる。戦艦の護衛も必要になる。ほかにもさまざまな理由から、陸に上がることになった。そして、選ばれたのは日吉キャンパスだった。
東京の霞ヶ関と横須賀軍港の中間にあって交通の便がよかったこと、慶應義塾の堅固な建物がほぼそのまま使えること、(地質が柔らかいため)地下壕が掘りやすいこと、無線の受信状況が良好だったことなどが理由だった。(「日吉・帝国海軍大地下壕」より)
1944年9月29日、連合艦隊司令部は日吉の寄宿舎に入り、キャンパスの多くの施設も海軍に接収された。
地下には、延長1200メートルにもわたる壕が掘られ、空襲などで危険なときには司令部は壕に下って指揮を執れるようにした。当時、壕には水洗トイレをはじめ、民間で使われていなかった蛍光灯もとりつけられ、真昼のような明るさだったという。