慶応と沖縄戦~激戦地への命令は1500km離れた豪華なキャンパスから…なぜ?

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米軍、沖縄本島に上陸

1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。沖縄本島に艦砲射撃が開始された。約20分間で12センチ以上の砲弾が4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾が2万2500発撃ち込まれ、午前8時半、ついに米軍が上陸した。

 迎え撃つ日本陸軍第32軍は、水際で攻撃する作戦を取らず、海岸には守備隊をほとんど配備していなかった。本土決戦への時間をかせぐための持久戦を続けるために。米従軍記者のアーニー・パイルは、当時をこう記している。

 「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。しかも1発の弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで」

 「それは、まるでピクニックのようなものであった」

 迫り来る米軍に、追い込まれた住民。上陸翌日の4月2日、米軍上陸地の読谷村のチビチリガマでは「集団自決」(強制集団死)で85人が亡くなった。親が子を刃物で刺し殺し、首を絞めるなどして殺し合った。

住民を巻き込み、血みどろの戦が進んでいく。米軍に比べて戦力が大きく劣る日本側の戦況は悪化の一途をたどる。本土決戦を引き延ばすため、そして沖縄の飛行場が米軍の手中に落ちることを危惧した大本営は、海軍に米軍への反撃を要請。1945年4月6日、日吉から沖縄に向けた特攻の総攻撃「菊水1号」の命令がくだった。

「きけ わだつみのこえ」

 特攻隊の中には、日吉キャンパスで学んでいた慶応大の学生もいた。長野県出身、経済学部の上原良司は、キャンパスでテニスを楽しみ、英語や数学、歴史を学んでいたが、学徒出陣で戦地に向かうことになった。上原の残した「遺書」「所感」には、日本の自由主義を望む言葉がつづられていて、学徒兵の遺稿集「きけ わだつみのこえ」でも異彩を放っている。

 「操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸い付く磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性を以って考えたなら実に考えられぬ事で強いて考えうれば、彼等が言う如く自殺者とでも言いましょうか。精神の国日本においてのみ見られることだと思います」(所感)

 「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は淋しいですが、心中満足でいっぱいです」(所感)

 「日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます」(遺書)

 沖縄に向かう特攻機は、米軍の艦船に近づくと、「ツー」という信号を出しっ放しにした。体当たりすると、信号は途切れた。この信号を聞いていたのは、日吉の司令部だ。

 上原は5月11日午前6時30分、鹿児島県知覧基地を離陸。22歳、上原の最後の声も母校に届いたであろう。

本土決戦までの時間稼ぎ

4月7日、日吉。当時、世界最大と言われた戦艦「大和」のほか、9隻が沖縄に突入する水上特攻のための出撃を命じた。瀬戸内海を出た水上特攻は、約400機もの米艦載機の攻撃に遭うことになる。戦艦大和は沖縄までたどり着かず、鹿児島県沖で沈没。3700人余が亡くなっていく「玉砕」の様子も日吉には届いていた。日本海軍、大型水上艦による最後の攻撃となった。

 4月25日、本土決戦に向けて、連合艦隊司令部のあった日吉は、海軍のすべての作戦を指揮する海軍総隊司令部に変わった。

 水際作戦のための特攻「桜花」、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」などを全国に配備した。

 沖縄では、5月中旬までに第32軍の主力部隊の約85%の約6万4000人を失っていた。それでも沖縄戦は終わらなかった。本土決戦までの時間を稼ぐために、南に撤退していった。これが第32軍、最後の作戦となった。

 「努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」(防衛庁戦史室「沖縄方面陸軍作戦」)

 菊水作戦は、沖縄の組織的戦闘が終わる前日の6月22日まで行われた。

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