沖縄に存在した「タピオカ工場」って知ってた?

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タピオカ、沖縄の希望になるか

しかし、1952年の新聞には「タビオカの輸出に希望」の記事が紹介されていました。当時、沖縄は日本ではなかったので、東京にいる琉球政府の代表から、沖縄に届いた報告でした。日本では、国が砂糖の輸入を自由にしたので、水飴などに使っていたデンプンは価格が下がり、使い道が変わってきていたようです。

1952年8月14日付『沖縄タイムス』

ここに目を付けた代表が「気候的特性に限られたものに着目すれば特に琉球からの輸入品は無税であるので品質さえ良ければタピオカの輸出は有望性が強い」と展望を示しました。

しかし、この後のタピオカは、八重山地方の開拓や沖縄からの移民が進むボリビアでも栽培が進んでいるという記事が数本あるだけ。タピオカが再び沖縄で盛り上がってくるのは、あの記事から12年後の1964年のことです。

この年、沖縄は、タピオカの輸出にかかる税金を免除してもらうため、政府と交渉を始めました。沖縄に「国際澱粉興業KK」という会社ができたからです。

 デンプンは、化学調味料やビール、ソーセージ、かまぼこ、アイスクリーム、栄養剤、接着剤など幅広く使われていて、需要が急激に伸びたため、不足していました。そこに目を付けた会社は、タイから苗木を購入して、沖縄の農家に分けて栽培してもらう計画を立てました。

沖縄に「タピオカ工場」開業

1960年前半の沖縄は、日本政府がサトウキビの工場を拡大したり、キューバ危機で国際的な値段が上がったりしたので、「サトウキビブーム」が起きていましたが、1965年ごろ、値段は暴落。さらに、日本政府が砂糖の原料の「粗糖」を輸入自由化を決めたことで、サトウキビ農家に不安が広がっていました。

 そんな空気を察知して、サトウキビに代わる作物を探していた沖縄県の北部にある宜野座村は、1965年、「国際澱粉興業KK」と提携して、タピオカ栽培をする農家に補助金を出し始めました。宜野座村は現在、阪神タイガースのキャンプ地にもなっています。

 会社と農家はサトウキビ並みの買い上げ価格の協定を結んだこともあり、宜野座村の農家のほとんどは、タピオカを試験的に栽培することになりました。

 宜野座村では、2000坪の敷地にタピオカ工場の建設も始まりました。タピオカの原料のキャッサバを工場でデンプン加工して、輸出するためです。

1966年、工場の操業が始まり、本土への輸出拡大に向けて沖縄側は交渉を進めていきました。

新聞には沖縄からのタピオカでんぷんの輸出は「明るい見通し」との見出しも躍ります。

1966年1月7日付『沖縄タイムス』

 しかし、その翌年、一気に雲行きが怪しくなりました。

 1967年4月、沖縄側は、タピオカの関税免除は「非常にカベが厚くこんごさらに折衝しなければならない」との見解を新聞紙面に述べています。
 さらに、宜野座村で栽培していたタピオカの初めての収穫は、採算が合いませんでした。

 一反当たり7~10トンの収穫を予想していたものの、一反当たり3~4トン、多いところでも5トンしか収穫できず、予想を大幅に下回ったのです。  記事には、こうあります。

「でんぷん工場が落成したが、原料がなく操業ができなかった。工場側では一年をみあわせ、ことし末ごろ操業開始の予定だというが、さいきんでは農家でタピオカ栽培をしているのが少なく、操業があやぶまれる」

 タピオカは収穫の翌年には土壌が荒れるとも言われているので、農家は栽培をやめていったようです。
 
 実は、この年の7月には条件付きで政府はタピオカの輸入を条件付きで認めたのですが、工場は閉鎖状態で、1968年までに会社は倒産しました。

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