【書評】小濱武著『琉球政府の食糧米政策~沖縄の自立性と食糧安全保障』

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「作ると食べる」の関係性

以上、本書に触発されて関連する本と結び付けて、本書が有する議論の射程(副題にある「沖縄の自立性と食糧安全保障」)を確認してみた。そうすると、島嶼の土地狭隘という自然的限界と、基地建設という社会的限界のどちらを重視して、「自給」政策の可能性と限界を分析するかが弱く、価格というフィールドから「自給」を分析する本書に、ある種の隔靴掻痒観をもつことも否めない。

この点と関連し、政策中心の本書に対し、ないものねだりになるが、前述の可能性と限界とも関連するが、限られた土地で「換金性」の高い作物を育てるのか、それとも「主食の自給」という政治意図を支持して米作をおこなうのか、政策の背後にある、農政と農家の経営戦略の絡み合いも、分析の際、必要になってくると考えた。例えば、1960年代後半を扱った第4章は、食糧米保護政策の回帰として論を展開しているが、序章の図1(8頁)で水稲の作付面積の推移を見ると、50年代に比べ減少している。なぜ、「保護政策」の時代と規定しつつ、稲作地の拡大がみられなかったのか、本書の禁欲的分析では、この点に関する説明がないことは残念である。

 確かに、著者は、住民の食糧確保と農業保護という農本主義的な立場で食糧米自給の問題を分析しているわけではない。自給が難しい地域のため、貿易収支など複合的な構図の中で分析をしている。そのため、価格の面で、農家の保護に言及してはいるが、やはり、農家が何を作るのかという点はあまり十分に言及していない点は気になる。

人口に比すれば生産性も低い沖縄の島嶼性という自然環境的条件を加味すれば、沖縄で農業を考えるといっても、農本主義的な発想だけで評価・分析するには難しいところがあることは言うまでもない。とはいえ、「自分たちが食べるものは自分たちの住む土地で作る」という意識の有効性を等閑にして、農業を論じてよいのかどうか、農本主義的発想の限界を認めつつも、こだわってしまう。

それだけでなく、基地が返還されても、農業振興に関する言及はそれほどない[1]。そこには、基地跡利用の中で、都市近郊は農業を基軸に載せる必要性はないという発想がまかり通っているようにも思える。農業比率の低下のなか、この土地で何を作るかという眼差しよりも、土地に対し投機的な眼差しが強くなっているのであろうか(土地から離れた愛郷心といっていいであろう)[2]

門外漢ながら本書を読みつつ、沖縄の現状を思い浮かべることで、「作ると食べる」の関係性を改めて反省的に気づいたところである。「食糧安全保障」という言葉を使い、沖縄問題を考えつつ本書をまとめた著者の意見を聞きたいと思い、後半は世迷いごとのような文章を書き連ねてしまった。最後まで読んでいただいた読者と著者にご容赦願いつつ、拙い紹介を締めたいと思う。

【本稿は8月31日付『沖縄タイムス』掲載原稿を大幅加筆しました】


[1] 読谷村の補助飛行場跡地の取り組みを見ると、先進農業支援センターを設置するように農業を基軸の1つにしている。もう一方、普天間基地の跡利用に関する「中間取りまとめ」を読むと、歴史や民俗に配慮し田芋に言及しているが、稲作には言及していない。

[2] 蛇足ながら、外部の視線ではあるが、内閣府の基地跡利用の有識者懇談会に吉本興業の会長が参加していることも象徴的に考えてよいであろう。

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