首里城が体現していた社会の彩り

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週刊誌の取材で首都圏在住の発達障害の人たちと知り合った。「困ることは?」と問うと、「時間を守るのが苦手で…」と答える人が目立った。

その瞬間、20年前の沖縄での記憶がよみがえった。

『毎日新聞』から『沖縄タイムス』に転職し、初日に取材したのが那覇市長の定例会見だった。各社の記者が顔をそろえた定刻直前、参加予定の1社の記者から「少し遅れる」との連絡が入った。定刻になると、市長はこう言った。

「可哀そうだから、少し待ちましょうね―」

時間を守っている人を待たせると悪い、という意識よりも、遅刻した人を切り捨てないことを優先する。こうした考えは、私にはカルチャーショックだった。

岡本太郎著『沖縄文化論』(中公文庫)に味わい深いエピソードが紹介されている。

沖縄の友人と会う約束をしたが、時間を過ぎても来ない。そのうち、にこにこ笑いながら、人のよさそうな顔でゆったりと現れた。せっかちな岡本は「ジリジリし、カンカンになっていた」が、その顔を見た途端、「とても愉快になって思わず笑いだしてしまった」という。

発達障害とつなげて、沖縄の人は時間にルーズだ、と言いたいのではない。私が感じているのは、一つの物差しに縛られない大らかさは、ときに社会の息苦しさを緩めてくれる、という効能だ。

冒頭の発達障害の人たちに「社会に求めることは?」と尋ねると、「とにかく怒らないで、と言いたい」という意見が出て、はっとさせられた。

先日、都内のコンビニで初めてキャッシュレス決済を試みた。スマートフォンの操作がうまくいかず、結局現金で支払った。その際、舌打ちをしてしまった私に、お釣りを差し出す店員の手が震えているのに気づいた。「自分に舌打ちしたんですよ」と弁解したが、その顔は引きつったままだった。私もこの社会を生きづらくしている1人だと、認めずにはいられなかった。

焼失した首里城が体現していた文化の多様性。それは、これからの日本に不可欠な社会の彩りに通じている。

【本稿は11月10日付毎日新聞「昨日読んだ文庫」を転載しました】

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