琉球・沖縄が地政学的に培った外交能力~元防衛研究所戦史部長の視座~【中】

この記事の執筆者

本稿は20002月に当時、防衛研究所戦史部長だった林吉永氏が「沖縄随想」のタイトルで執筆、保管していたエッセーを一般初公開していただきました。

 

糸満ウミンチュの追い込み漁

 

那覇市の南へ10数キロ、東シナ海に面して良港に恵まれた糸満市がある。琉球王朝時代から、サバニをあやつってする漁業の中心にあった。これを追い込み漁という。サバニ数艘で網を張り、大勢で海に潜り魚を網に追い込む漁法である。

追い込み専門の、沖縄の人々が言う代表的呼び名である「ウミンチュ」の人々、いわば勢子の役割を担っている海人たちにとって海中の漁場は、7人、8人という子沢山の家族の食い扶持を減らすために、11歳前後から19歳前後まで年季奉公に出された少年たちの仕事場であった。

 

2次大戦後も、沖縄では米国統治下にあっても、年季奉公に出される少年少女達に支払われる前金を親が受け取り、いわば網元に金で買われていく状態が続いていた。米国の統治者は、これを人身売買として厳しく追及、禁止の法を定めたのは未だ歴史に新しい。琉球から沖縄時代へと続いたこの風習は、「糸満売り(いちまんうい)」と呼び、泣く子を泣き止ませる時に「糸満売りにやってしまうよ」と言えば泣き止んだと言い伝えられる。

サバニの追い込み漁は、糸満沖を航行していたオランダ船が暴風雨で難破し、8人の乗組員が漂着、地元民に救助されてから「ガマ(洞窟)」に住みつき、その時、地元民に教えた漁法であり、その8人、エイトマンにちなんで土地の名称が「糸満(イトマン)」となったとか。オランダ船の船員が英語を使ったとは思えないのだが、鎖国のさ中でも、日本へ寄港することができたオランダ船を米国の商人がチャーターしていたのだから、この「エイトマン」伝説もあながち否定できないのである。

ちなみに、長崎・平戸の出島に寄港したオランダ船やポルトガル船の屏風絵を見ると、英米の国旗が描かれているのを見つけることができるかもしれない。余談だが、糸満の名称にはもう一つの話がある。ナポレオンがエジプト遠征に駒を進めた時、地中海に浮かぶ小舟を見て、「何処の舟か」と問うたところ、部下が「フロム イースト」と答え、「おう、イーストマンか」と言ったのが、「糸満」につながる。

ここでは、英語とフランス語の講釈はしない。要は、糸満の漁民が小さなサバニで如何に遠方まで進出していたかという事実の傍証であるとしたい。黒潮に乗って土佐沖や紀州灘にまで漁業圏を広げていたことは、史実に詳しい。

この記事の執筆者