本稿は2000年2月に当時、防衛研究所戦史部長だった林吉永氏が「沖縄随想」のタイトルで執筆、保管していたエッセーを一般初公開していただきました。
宴の日に起きた悲劇
ペリー提督が琉球へ来航したのは、小笠原探検時に寄港したのを含めて5回である。
初回の江戸幕府との交渉は失敗に終わり、帰路、那覇に立ち寄り、翌1854年再び那覇に来航、開国要求の再交渉のため江戸に向かう。この年、日米和親条約を締結する。琉米修好条約は、帰国の途上、那覇に立ち寄った際に締結される。
1854年、この年の那覇滞在時も歓迎の宴が催された。その折の出来事について触れる。
歓迎の宴で、ペリー提督一行が酒食の贅を尽くしてもてなされたことは想像に難くない。今でも、沖縄の人々は、客をもてなすに厚い。事件は、地酒、極めてアルコール度の強い泡盛に酔ったサスケハナ号乗り組みのひとりの水兵によって引き起こされる。
50代の女性が暴行されるのである。客人に対する礼が尽くされたことは言うまでも無いが、琉球の人々は客人といえども、その乱暴狼藉を許す程のお人好しではなかった。蛮行に腹を立てた泊の人々は、棒を持ち、石を投げ犯人を追い、海辺に追い詰めた。犯人は、道不案内の土地に逃げ場を失い海に活路を求め溺れ死んだ。
この事実を知ったペリー提督は、琉球王府に対して犯人引き渡しを要求したが、琉球王府は、王府機関の手で犯人を逮捕し裁判をもってこれに処する旨を通知するのである。裁判は、ペリー提督滞在中に行われることになり、ペリー提督側の傍聴、立ち会いのもと厳格な裁判をもって犯人に判決が申し渡された。
ペリーの部下を死に至らしめたとする6人の殺人犯は、それぞれに波照間島か西表島であろうか、遠島への流罪を申し渡されたとある。ペリーの航海日誌には、裁判の公正厳格であったこと、ペリー自身が結果について満足していたことが記され、加えて「刑の執行は確認していない」と後記されているという。ペリーの力の外交と、琉球の知恵の外交との駆け引きは、ウランダー墓付近で展開されていたのである。
昭和62年、この裁判について記録された文書が日の目を見た。そこでは、刑は執行されなかったこと、裁判を受けた6人の犯人が身代わりであったこと、公衆の面前で犯人扱いされ不名誉を被ったのは、身代わりを買って出た琉球王府の役人達であり、この事件のほとぼりが覚めた頃、賞詞を受け、特別の給与や昇任の恩恵に恵まれ名誉回復が図られたことが明らかになったのである。
「何の変わろうところが有るのか」
1995年9月4日、沖縄に駐留する米国兵3人が女子児童を暴行するという忌まわしい事件が起きた。米軍沖縄駐留がもたらしたマイナス面の事象をとりあげた米国軍人や軍属に対する反感、そして、超大国米国との関係は無論のこと沖縄にとっては特に基地問題について弱腰な日本国政府の姿勢に対する反発、加えて、琉球沖縄有史以来の異邦に対するしたたかな民族的感性の目覚めは、これを許し得ないとする沖縄の人々の態度を硬化させた。
この事件は、まだ耳に新しい。蓄積された沖縄の人々のエネルギーが、これまでの寛容と忍耐が続いた状況を一変させてしまうのである。しかし、それは、150年も前に起きた事件、ペリー提督座乗のサスケハナ号乗り組み水兵の泊集落女性暴行事件に対する泊住民の報復リンチに思いを回帰させ、平成の今に起きた事件と「何の変わろうところが有るのか」と思いを至らせるのである。