琉球・沖縄が地政学的に培った外交能力~元防衛研究所戦史部長の視座~【上】

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本稿は20002月に当時、防衛研究所戦史部長だった林吉永氏が「沖縄随想」のタイトルで執筆、保管していたエッセーを一般初公開していただきました。

 

「コーラルブルー」の海の道

 

那覇行きの飛行機が着陸態勢に入り翼を傾け始めると、客席の小窓越しに見慣れない風景が飛び込んでくる。

太平洋と東シナ海は、それぞれ東と西に分かれ沖縄本島を包むように挟み、ひと際青く広がっている。島の陸地に向かって、それは紺碧というよりも黒に近い青に彩られた、珊瑚礁の色鮮やかなブルーのキャンバスに一筆で線を引いたように、一筋、二筋、飛行機が高度を下げるにつれ青黒い線が増え、幾筋も大海から島の海岸線に向かっている。それは、満ち潮になっても大人の背丈をようやく隠す程でしかない珊瑚礁の遠浅の海に引かれた、漁船や連絡船の大海への出入り口となっている海の道である。

サバニと呼ぶ丸木をくりぬいた細長い舟が進化したような幅2米前後、長さ78米位の吃水の浅い漁船も、引き潮で珊瑚礁があらわになっている時には、舟底を傷つけなければ目の前の深い海底に続く漁場へ出て行けないし、妻や子らが待つ港に帰って来られない。だから、島人は、島の岸辺から何百米も延びる化石化した堅い珊瑚の棚を掘って、サバニが往来できる海の道をつけた。

飛行機の窓から見えた島から大海に延びる黒い触角は、島人の生活の知恵が生んだ海辺の水中運河なのだ。島を取り巻く浅瀬に波がかぶり、潮が満ちる時に輝く海の色は、コーラルブルーと言う。その輝く美しさは見た者だけにしかわからない。写真や絵葉書やテレビといえども、美しさに触れた感激を味わうことができない。まだ見ぬ者が想像に託し網膜に映しただけの海の青さと、足を踏み入れ海水を濁すのをはばかられる体感を伴わぬ感激は、本物のコーラルブルーではない。

 

ペリー提督の那覇来航

 

1853526日、旗艦サスケハナ号に乗艦の指揮官、今で言うと米国海軍太平洋艦隊司令官である東インド・シナ・日本海域合衆国海軍司令長官、MC・ペリー海軍提督は、蒼海の波頭をかき分ける船首の彼方に琉球の諸島を捉えた。深海から湧き出した恐怖を覚えるような青と決別し、コーラルブルーが眩しい、底に這う貝や色鮮やかな熱帯の魚が輝く珊瑚礁の先に、穏やかな波が洗う海岸線を仰ぎ、目を細めていたことであろう。この頃から那覇は、海上交通の中心にあったが、現在の那覇市泊沖から出入りできる巾広い水中運河はまだ無い。ペリー提督は、鎖国政策をとる日本国に対して開国を迫るため江戸に向かう途上で泊に寄港、この地で2カ月ほど過ごしたのである。

 

琉球王府は、一行のため歓迎の宴を設けた。その記念がここに在る。

 

話はいささか飛ぶ。那覇市内、泊港の北、東西に走るさほどの長さではないが立派に舗装された道路の端に「泊外人墓地」の一画が在る。この地の人々は、これをウランダー墓と呼ぶ。歩道脇の柵越しにコンクリートの棺桶を並べたような、又、十字架の整然と並ぶ異国情緒を醸す墓地を見ることができる。入り口には背丈よりもずっと高い鉄製の門が人の出入りを阻んでいるが、鍵は掛かっていない。手を入れて閂(かんぬき)を外し中に入る。すぐ右手の足もとの石台は、金属板がはめ込まれ説明版になっている。しかし、錆が出ていて読めない。

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