琉球・沖縄が地政学的に培った外交能力~元防衛研究所戦史部長の視座~【上】

この記事の執筆者

 

異邦人と接する知恵

 

道路を隔てて南には沖縄の諸島や本州、九州に通うフェリーの岸壁とそのターミナルの賑わいが聞こえてくる。しばらく南へ歩くと、沖縄一の宮「波の上宮」に至る。宮の裾には、砂を運び入れて砂浜を作った小さな海岸が在る。その真ん前に、もはや水中運河とは言えない、三浦半島の久里浜や房総半島の木更津、金谷の東京湾フェリーの出入りに見たのと同じような、港から延びるコンクリートの突堤に囲まれた普通の港湾が造られている。

残念ながら、ここだけは沖縄の海の美しさをいささか損ない、遥かに見渡せた東シナ海への景観を遮断するかの如く、青黒い海を跨いで架けられたバイパスが左右に迫る。東シナ海から吹く西風を避けようもない、その説明版は潮風にいたぶられ塩害に蝕まれ判読に耐えられなくなっている。

 

墓地の入り口に戻ろう。目を移すと、仰ぐように、身の丈の倍はあろうかと見える石碑に刻まれた「ペルリ提督上陸之地」の字が飛び込んでくる。黒船が浦賀に来航し、江戸湾に侵入、徳川江戸幕府開闢(びゃく)後200余年もの間、かたくなに鎖国政策をとり続けてきた日本に、砲艦外交をもって開国を迫る国家一大事の事件を起こすに先んじて、ペリー提督率いる黒船四はいが泊の沖に投錨したのである。ペリー提督はもとより乗組員は、沖合の黒船からはしけを駆ってこの地に上陸した。休養とともに、食料や飲料水を補給したであろうし、情報の収集、調査、あわよくば占領も企図のうちに秘められていたかもしれない。

 

大海に浮かぶ琉球の島人たちは、気が遠くなる程の時間の経過の中で、意識するとしないにかかわらず、何処よりか来る異邦の人々と接する宿命にあった。害をなすか益をなすかを問わず、その繰り返しが琉球に異邦人との接し様を知恵として与えた。異邦、外来の船を見、異人の上陸を徒らに騒ぎ慌てふためく習性は、この地に育つことはなかった。【()に続く】

 

<参考文献>「続おきなわ歴史物語」(ひるぎ社おきなわ文庫、高良倉吉著)、その他各市町村発行パンフレット等多数。

この記事の執筆者