当時の琉球王府が断固として主権を貫いた姿勢については、ペリーの航海日誌にも記され、高く評価しているところであるが、今や如何。
明治時代初期の「琉球処分」以降、琉球は日本国政府の仕組みに入り沖縄となる。
「ヤマト(大和)ンチュ」のやり様を受け入れ、又、強制された歴史は、徐々に、又、急速に、琉球沖縄有史以来の固有に育まれたサバイバルの良き知恵と美徳を覆い隠して行くのである。
ペリー提督来島にまつわるもう一件のエピソードがある。ペリー提督は、米国の艦隊がアジア太平洋方面進出時に必要な燃料補給のための石炭貯蔵施設、乗組員の休養、食料及び飲料水の補給等々の便宜を図る拠点を沖縄本島に確保するため、琉球王府に土地の割譲を申し入れた。
米国本土から太平洋の西の果てまで、今では考えられない程の、月の満ち欠けの巡りを幾つも数える長い期間をかけて航海するのであるから、基地を設けることは必然であった。大英帝国が、アフリカやインド等数多くの海外進出拠点を各地に求め、基地を確保して行ったことと同様であり、同時に、足掛かりを得ることはかの地を統治下に入れることでもあった。
英仏に遅れを取った米国の、又、ペリー提督の戦略的企図は明らかではない。要求の地は、泊地区の一画であったかと想像する。土地を購入し、建物を建て、今で言う在外公館としたかったのであろう。当然、そうなればこの土地と施設は治外法権となり米国の主権下に置かれる。当時の琉球王府は、一隅といえども琉球の地を明け渡すことをしなかった。
回答は、「土地も建物も、寄港する期間に限り、琉球王府のものを無償で提供する」。即ち、主権までも譲り渡さない旨を明確にしたのである。
国際的な環境、情勢が如何なる状況であったのか知る由も無かったにせよ、琉球の独立と主権を維持する強固な姿勢を貫く「庇を貸して母屋を取られない」態度が堅持されているのを見ることができる。
琉球沖縄の国際性を手本に
今日の日米安全保障条約「地位協定」では、日本の独立と主権を脅かす外的脅威に対して米国が軍事力をもって日本を支援するために、日本に米軍の基地を置き、或いは約束を履行するに必要とする米軍用の施設を提供するという約束事がある。
日本に存在する米軍基地そのものは、米側から放棄が通知されない限り、その間、米国に管理権が存在し【日米地位協定第二条1項A…二-1-A】、又、日本の管理下にある施設を部分的且つ期間を限って提供する場合も規定している【同第二条4項B…二-4-B】のである。
1853年にさかのぼり、ペリー提督の要求は前者であり、琉球王府の回答は後者であることに驚く。ちなみに、現在、1972年沖縄返還に際し沖縄の島嶼は日本に復帰したものの、沖縄に存在する全ての米軍基地は、【二-1-A】であり、沖縄の空も同様である。
泊外人墓地に歩みを戻す。何処に、誰の墓が在るのか、墓地の説明版では定かでない。通り過ぎる一つ一つの墓の主を慰霊しつつ、十字架の墓地群の奥に足を踏み入れ見て回る。
サスケハナ号乗り組み水兵、ウイリアム・ボードの墓に目が釘付けになる。これこそ1854年、ペリー提督が日米和親条約締結に成功し、意気揚々と帰国の途につき、その勢いをもって琉米修好条約を締結した有頂天の気分で一行歓迎の宴に臨んだのであろう日、泊の女性を暴行、泊の人々から死に至らされた水兵が葬られた墓である。
琉球沖縄の人々は300年もの間、彼方の異邦の人々がこの地で一生を終えた時、その死を悼んで墓を造り埋葬し、その墓を守って来た。
異邦人、ウチナーンチュ(沖縄の人々)、ヤマトンチュ、そして、害された者、害する者の差別なく、人の一生を寛容に受け入れ、土に還れば同じく霊を弔う。今や、傾き風化しつつある墓のそれぞれから、時代をさかのぼり、琉球沖縄の国際性と人々の異邦人に接する感性を思うのである。
ペリー提督の来島は、結果的に、長い間培われて来た、琉球沖縄にとってそれが当然であった、異邦との対応感覚の妙を際立たせ、その後、ペリー提督が北上し江戸湾沖に姿を現した後の、江戸幕府への砲艦をもってする開国要求が、日本国中の震撼を呼び、うろたえ慌てふためかせたことと好一対であり、島嶼国日本が小島嶼の国琉球沖縄の生き様を手本となし得るかを考えさせるのである。【了】
<参考文献>「続おきなわ歴史物語」(ひるぎ社おきなわ文庫、高良倉吉著)、その他各市町村発行パンフレット等多数。