海からの渡来人を敵視しない感性
中国の大陸に上がり、その文明に打たれた人々もいた。又、中国から流れ着く人々、商いに来る人々も多かった。華夷秩序に組み込まれることを是とし、冊封され、進貢し、中国からは冊封使を迎え龍潭池を掘り、舟を浮かべ歌舞音曲でもてなすのである。
中国に学ぶため、留学生を福州の地に建てられた専用施設である琉球館に送り込んだ。その数は、500年間に20万人とも言われる。江戸期の災いは、薩摩の遠征軍に戦わず降伏し、統治下に治められたことであって、役人が派遣され差配を受けることになる。
薩摩藩や派遣された役人とのいざこざは、琉球の知恵で解決する。中国と日本、二つの統治者に統(す)べられながらも、中立と平和を求めていくのである。それは、沖縄人の知恵の物語として、今なお継がれていることを耳にし、知ることができる。
又、何故か18世紀、19世紀にフランス人の宣教師が訪れ、あるいは中国の商人が渡来し琉球の地で土となっている。今でも台湾から来たり、商売を糧とする人々が住み着いたりして、この地の土に還っている。これらは、外人墓地の墓碑が語る輻輳(ふくそう)した国際化小世界が存在した事実である。
沖縄本島の南東、知念沖に姿ぶり美しい久高島からアマミキヨ来り琉球の祖となる。稲作をもたらしたのもアマミキヨである。知念城の近くには、斎場御嶽が久高島を臨み、祖を祀り願いを託す場となり、歩を運べば、畳2枚程の田に清浄な水が湧き、祖がもたらした稲が絶えること無く、豊穣を繰り返すように祈る人の手が入っているのに出会う。
イザナギ、イザナミが天より下り国を造り、アマミキヨ、海より来り琉球を造る。だから、この島嶼では、この地の人々は、海より来るものに優しく、敵視しないのではないか。
「追い込み漁を学んだ」、「オランダ人との混血が糸満美人を生んだ」、そして「中国の土木や建築を真似た」等々は、本質ではない。小さな、しかも東シナ海と太平洋に面する島嶼であるが故に多くの異国とその人々との接触を数多く必然とし、国際的感性の発芽と醸成があったことを重く見たい。
無意識の円満外交術
だから、ペリー提督の来島は脅威ではなかった。地勢環境が、無為な衝突を好まず、摩擦を避け衝突の発生を抑え、むしろいずこの異邦人ともうまく付き合う国際感覚と知恵を生み、同時に多くの異邦と交流せねばならぬが故の柔軟でしたたかな性格を形成し、自己の尊厳と権利を最低限確保し維持して行く練達の外交能力を身に付けたのである。
この島の人々自らにそれらの力が有るのか無いのか、自らにそれを問う自意識が有ったとは考えられない。それを裏付ける自己評価が見当たらないからである。おそらくは、体験の繰り返しが極めて数多く、その体験が、慣習或いは風習が、意識しないまま行動や思考を律して行く「無意識」の条件反射の世界、サブコンシァスネスを形成し、「円満外交」の効果を現すようになった。
重ねて言う。ペリー提督の上陸は、度々繰り返されてきた異邦人の出現にしか過ぎなかったのである。脅威や恐怖、それをもってどうすればいいか自失に陥るのではなく、自然体でそれをかわす手法が身に付き、即座に具体的方法として実行に移されて行くのである。
如何に対処すべきか、歴史上、安寧を保障して来た数々の手段の効果を信じていたとしか思えないのである。地勢的には、時間を猶予する環境にない極めて小さな奥行きの世界であり、表裏比興が誰の批判するところでもない、一族社会という環境が、小田原評定を招かぬ体質と、小早川秀秋の日和見型ではなく「即断即効型八方美人外交即ち円満外交」の知恵を育てることになったのであろう。【(下)に続く】
<参考文献>「続おきなわ歴史物語」(ひるぎ社おきなわ文庫、高良倉吉著)、その他各市町村発行パンフレット等多数。