普天間基地返還問題をはじめとする、在沖縄米軍基地をめぐる問題が混迷を極めている。問題の解決が困難であることを日々思い知らされる今だからこそ、改めてその歴史的経緯を確認することが重要なのではないか。このような問題意識のもと、筆者(池宮城)は沖縄が日米両政府の間で問題となり始めた時期まで遡り、沖縄基地問題の原点を探った著作、『沖縄米軍基地と日米安保―基地固定化の起源1945-1953』(東京大学出版会、2018年)をこの度上梓した。
そこで本稿では、拙著を執筆するまでの経緯なども交えながら、その内容について紹介させていただきたい。
米軍基地に関する素朴な疑問
なぜ、沖縄基地問題は解決されづらいのだろうか。なぜ、沖縄米軍基地の削減は中々進まず、固定化された状況が続くのだろうか。
沖縄で生まれ、小学5年生までを過ごした私にとって、米軍基地は身近な存在であった。住んでいたのは那覇市だったが、少し車で足を伸ばせば、米軍基地にすぐに出くわした。だからこそ、今思えば、沖縄に住んでいる間は、米軍基地がたくさんあることにさほど違和感を持っていなかったように思う。沖縄本島北部にある父方の祖父母の家に行く際に通った国道五八号線の道沿いには、嘉手納空軍基地のフェンスが延々と続いている。米軍基地とその周辺の異国情緒漂う街並みは、見慣れた景色であった。
ただ、沖縄に住んでいる間にも、米軍基地の存在について疑問を抱いたことはあった。小学5年生の時、学校の行事で米軍基地内の同年代の子供達と交流したことがあった。その際に最も印象的だったのが、米軍基地の広大さだった。基地の入口から交流先の学校までの距離の長さや、綺麗に整備された芝生が道路の両端に広々と続く光景に、贅沢な土地の使い方をしているなとの印象を子供ながらに抱いた。ここは日本なのに、なぜ米国がこれほど広大な敷地を持っているのだろうと疑問に思ったことを今でも覚えている。
研究のきっかけ
沖縄に米軍基地が極端に多く存在すること、そして沖縄基地問題が長年にわたり政治的、社会的、そして外交的懸案事項となっていることを知ったのは、千葉に引っ越してからのことだった。千葉に引っ越してきてから米軍基地に出くわす機会がなくなったことに、とても驚いた。東京都八王子市にある東京都立大学(現・首都大学東京)へは、自宅から通学したこともあり、行動範囲は一気に広がった。それでも、米軍基地に出くわすことはなかった。
もちろん、たまたま私が首都圏にある米軍基地の近くを通ることがなかったとも言える。ただ、米軍基地が身近にあるのか、そうでないのか、引越し前後での違いが明白だったことで、私は沖縄基地問題に関心を持つようになったのだと思う。
そして、冒頭で記した問いに対する答えを知りたいという思いから研究を続けた結果生まれたのが、拙著『沖縄米軍基地と日米安保―基地固定化の起源1945-1953』(以下、本書)である。本書では、第二次世界大戦後初期の沖縄米軍基地の役割の変化に着目しながら、今日でも沖縄の基地負担軽減が進みにくいことの一因を浮かび上がらせることを試みた。そこでまずは、なぜ今あえて第二次世界大戦後初期まで遡る必要があるのか、確認していきたいと思う。