沖縄基地問題の起源―『沖縄米軍基地と日米安保』に寄せて―【下】

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日本外交の基本枠組みと沖縄

 

一方、日本の沖縄構想を考察するにあたっては、米国側よりも沖縄に直接言及した史料が一段と少なかったため、一層の困難が伴った。その中での頼りの綱は、戦後日本の外交・安全保障政策の基本枠組みとされる憲法9条と日米安全保障条約の存在だった。

戦後の日本は、憲法9条と日米安全保障条約の枠内で、一貫して外交上の構想や政策を作り上げてきたとされる。つまり、本書の分析対象である第二次世界大戦後初期から現在に至るまで、基本的に同様の枠組みの中で沖縄構想及び政策が生み出されてきたのである。そうであるならば、両者の成り立ちと沖縄をめぐる問題がどのように関連付けられていたのか(もしくは、関連付けられていなかったのか)を追うことで、日本の沖縄構想の考察が可能になると考えたのである。

1951年当時の日米両政府の将来構想

 

以上の視点から研究を進める中で注目したのは、日本が米国に基地を提供し、米国が日本に安全を提供するという、現在まで続く日米の安全保障協力のあり方が、1951年に日米安全保障条約(以下、旧安保条約)を締結した段階では、あくまでも暫定的なものとみなされていたことだった。それは、日本の提供する基地の多くが沖縄に長期にわたり存在する現状が、旧安保条約の締結時には想定されていなかったことを意味する。言い換えれば、沖縄に大規模な米軍基地を長期にわたり存続させる状態を、日米両政府が当初から想定していたわけではなかったのである。

当時の日米両政府は、いずれ日本が憲法9条を改正し、相互防衛条約を締結するという将来構想を抱いていた。つまり、日本が米国と相互防衛条約を締結し得るほどの軍事力を備え、そして沖縄を含む領土の防衛責任を負担できるようになれば、論理的にはその分だけ沖縄における米軍基地の必要性は失われ、基地を整理・縮小することが可能になる。日本が米国に基地を提供し、米国が日本に安全を提供するという、暫定的に築かれた安全保障協力の関係が変更され、予定通り相互防衛条約を締結できる状況が生まれていれば、沖縄米軍基地も今とは異なるものになっていたと考えられる。

もちろん、実際に沖縄米軍基地の整理・縮小を行おうとすれば、沖縄を「血で購った」と理解する米軍部の強い抵抗が起きたであろう。また、旧安保条約締結により、日米が安全保障協力の関係を築き始めたことを踏まえれば、沖縄から米軍基地が完全になくなる可能性は低かったであろう。だが、旧安保条約締結からの数年間、米国政府は日本の防衛力増強を強く望み、日本が沖縄防衛に関与することを沖縄施政権返還の条件としていた。日本による沖縄防衛の責任負担の実現を、米国政府は現実的に希望していたのである。

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