沖縄の戦後に向き合うー『米軍が最も恐れた男―その名は、カメジロー』を上映して

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瀬長亀次郎の情報発信力

 

筆者は、映画、佐古監督の著作、そして「不屈館」訪問を通じて知った亀次郎の人となりを、二つの視点から説明できると考えた。

一つ目は、情報発信力の高さである。亀次郎は数多くの演説会を開催するなどの政治活動の傍らで、積極的な執筆活動を行っていた。これは、政治家になる前の亀次郎がジャーナリストとしての経験を積んでいたことも影響していると考えられる。「不屈館」の館長でもある亀次郎の次女・内村千尋氏も、亀次郎は「伝えることの大切さを意識していたのではないか」とコメントされた。そして、亀次郎による情報発信の対象は、沖縄のみならず、本土の人々にも及んだ。亀次郎は、本や雑誌記事を通して沖縄の現状を本土の人々に訴え、沖縄の本土復帰を訴えたのである。

亀次郎の情報発信は、その活発な活動もさることながら、ユーモアを交えることを重視していたことにも特徴を見いだせる。亀次郎がユーモアに溢れる人物であったことは、次女・内村千尋氏をはじめ、映画に出演された沖縄の人々が、楽しげに彼とのエピソードを語る様からもひしひしと伝わってきた。沖縄を取り巻く政治課題が、民衆と団結して立ち向かわなければ解決し得ない困難なものであるからこそ、いかにして民衆を巻き込むかということを亀次郎は大切にしていたのではないか。筆者は亀次郎について見聞きする中で、そのことを強く感じた。

 

日本国民の団結を重視

 

二つ目は、民衆の団結を重視したことである。これは前述した映画のポイントそのものだが、見逃してはならないのは、亀次郎が考えていた民衆の団結とは、沖縄に加え本土の人々も含めた日本国民の団結だったことである。

そもそも亀次郎にとって、沖縄の本土復帰を目指すことは日本人として自然なことだった。実際、亀次郎が記した日記には、「日本国民の魂をもって」「日本民族の誇りをもって」といった表現が多数でてくる。日本人としての意識が強かったことについて、次女・内村千尋氏は、亀次郎が戦前に本土での生活も経験していたことも影響しているのではないかとコメントされた。

日本国民の団結を重視していた亀次郎が目指したのは、本土の人々と連携した活動を展開することだった。例えば亀次郎は、沖縄の状況を本土の人々に発信する一方で、1955年から始まった、在日米軍立川飛行場の拡張に反対する住民運動である砂川闘争の場にも足を運んでいた。本土の運動との連帯を大切にしていたからこその行動であったと、次女・内村千尋氏は言う。

沖縄施政権返還問題は、徐々に日本全体の問題として取り組まれるようになったという経緯がある。それは、日本国民の団結を重視する亀次郎の働きが実を結んだことを意味するのではないだろうか。

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