普天間基地への影響
グローバルな米軍再編の日本への適用は、02年12月以降の日米安全保障協議委員会(Security Consultative Committee: SCC, いわゆる2+2)を通して協議された。この日米協議は3段階で構成された。第一段階として05年2月に日米共通の戦略目標を特定し、第二段階として同年10月に自衛隊及び米軍の役割・任務・能力の検討結果をまとめ、第三段階として06年5月に在日米軍の兵力態勢見直しを確認した。
第二段階の協議後に発表された「日米同盟:未来のための変革と再編」という共同文書で、日米両政府は、キャンプ・シュワブ東端の辺野古崎をL字型に埋め立てて滑走路を1本建設する案に合意した。しかし、第三段階の「再編の実施のための日米ロードマップ」では、2本の滑走路をV字型に配置することが承認された。運用上の能力を確保するため、そして近隣の居住地域の上空を軍用機が通過しないよう、安全性と騒音及び環境への影響に配慮した結果、この提案となった(外務省「再編実施のための日米のロードマップ」2016年)。これにより、1,600mの滑走路を2本設置するため、護岸部分を含め約160haを新規に埋め立てることとなった。
さらに、ロードマップでは、約8,000人の第3海兵遠征軍(Third Marine Expeditionary Force: III MEF)の要員とその家族約9,000人を沖縄からグアムに移転することを決定した。普天間の移転、要員のグアムへの移転が実施されれば、嘉手納飛行場より南の施設の多くが返還可能とされた。キャンプ桑江、牧港補給地区、那覇港湾施設、陸軍貯油施設第1桑江タンクファームが全面返還、III MEFの司令部があるキャンプ瑞慶覧が部分返還される。ロードマップに示された在沖米軍基地に関するこれら全ての提案はパッケージとしてまとまっており、特に、嘉手納以南の統合及び土地の返還は、III MEFの要員及び家族がグアムへ移転した後に実施されることが特筆された。
移転先での反対運動
この二つの移転事例は、龍山基地の返還には国内移設、普天間基地の返還には県内移設がそれぞれ条件となっていた。移転先に選定された基地周辺の住民の困惑を招き、新たな土地又は海の接収に対する市民の反発を引き起こした。
ピョンテクでは、ハンフリーの拡張により、1370人、535世帯が影響を受けることになった(ユ・ホン、日本平和大会での講演、2005年)。龍山の返還が合意されたすぐ後の1990年11月に「龍山基地移転に反対する市民連合」が結成され、地元のNGOとも連携をしながら反対運動が展開された(Andrew Yeo, “Local-National Dynamics and Framing in South Korean Anti-Base Movements” Kasarinlan: Philippine Journal of Third World Studies Vol. 21, No.2)。さらに、全国レベルのNGOや地元の市民団体、人権、女性団体等が2005年7月に「汎韓国解決委員会(Pan-National Solution Committee to Stop the Expansion of U.S. Bases: KCPT)」を結成し、運動の指揮をとった。KCPTは反対を訴える2本の軸として、①生計の問題と農民の土地の強制収用に焦点を当てた不正義の観点と②米軍基地の拡張が朝鮮半島と北東アジアの不安定化につながるという平和の観点を設定した。そして3つの大規模なデモを05年7月、12月、翌年2月にピョンテクで実施した。また、地元でのキャンドル集会だけでなく、国民の関心と理解を高めるため、ソウル市内でのコンサート、ピョンテクへのバスツアー等を開催した。
一方、沖縄では、04年4月、那覇防衛施設局が海底の地盤を調べるボーリング調査に着手した。建設につながる同調査を阻止するため、キャンプ・シュワブの接する大浦湾の海岸にテント村が設置され、座り込みの拠点となった。それに加えて、海上でも環境影響評価や現地技術調査への抗議活動が展開された。13年12月、仲井眞弘多沖縄県知事が辺野古沖の埋め立てを承認し、翌年7月から防衛省は代替施設建設事業に着手した。資材搬入の車両の進入を監視、阻止するため、同基地ゲート前で座り込みや集会が続いている。埋め立て予定海域周辺でも、ボートやカヌーを使って「新基地建設」に反対している。【以下、「下」へ続く】
*本稿は早稲田大学琉球・沖縄研究所『琉球・沖縄研究』第5号(2017年6月)に掲載された論文を加筆修正しました。