「忘却された歴史」―日本本土の米軍基地問題史を問い直す

この記事の執筆者

 

本土の「危険性」軽減

 

一九五二年四月に安保条約が発効したとき、日本本土には、二八〇〇件以上、一三五〇平方キロメートルを超える膨大な米軍基地が広がっていた。米軍の事件・事故で命を失う国民は、多い年には一〇〇名近くにのぼり、驚くべき頻度で米軍機の墜落事件も発生していた。一九五〇年代には、石川県の内灘闘争や、東京都の立川飛行場の拡張に抵抗する砂川闘争をはじめとして、全国各地で反基地運動が行われた。

「独立の完成」をめざす保守の鳩山一郎、岸信介政権が在日米軍の縮小をめざし、かつアイゼンハワー政権が在外米軍の削減を進めた結果、一九五八年に、米地上部隊の日本本土からの撤退が実現した。

一九六〇年代になると、米軍基地周辺の都市化が進み、米軍基地問題は都市問題の一環として論じられるようになった。「安保公害」「基地公害」への批判が高まり、ベトナム反戦運動、沖縄返還、七〇年安保などと連動しつつ、反基地運動が展開された。日本政府がとくに首都圏の米軍基地を問題視し、ニクソン政権がアジア戦略を見直したことから、七〇年代には関東の米軍基地が大幅に縮小された。こうして、本土の米軍基地の「危険性」は大きく後退したのである。

ここで留意すべきは、一九五〇年代以降、本土に駐留していた米海兵隊第三海兵師団などが、沖縄に移駐したことである。本土の「危険性」軽減は、沖縄へのしわ寄せを伴うものであった。さらに、本土の米軍基地問題が深刻だった時代は、鳩山、岸のみならず、中曽根康弘らの自民党有力者、そして保守系の知事らも、米軍基地の削減を主張していた。米軍基地被害への抵抗は、イデオロギーの問題ではなく、ナショナリズムにかかわる問題であり、かつ基本的人権や日々の生活を守るためのものだったのである。

本土の米軍基地が大幅に削減されたため、一九八〇年代以降、多くの日本国民にとって米軍基地問題は身近な問題ではなくなった。そうした中で、一九九五年の沖縄少女暴行事件で沖縄米軍基地問題がクローズアップされるようになったため、多くの国民は、米軍基地問題は「沖縄の問題」だと感じたのであろう。だが、沖縄米軍基地問題は、日本全体の問題であり、安保体制そのものの問題であることを、忘れてはならない。

この記事の執筆者