著者に聞く~『基地社会・沖縄と「島ぐるみ」の運動』

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B52撤去運動から24ゼネストへ

 

――この本の一つの盛り上がりは第3章から第4章にかけてだと思いますが、それはちょうどB52撤去運動が盛り上がり、2・4ゼネストへと向かう過程を扱っていますね。このテーマに関してはすでに多くの研究で言及されていますが、秋山さんならではの発見はどこにありましたか。

秋山:私なりの発見としては、大きく言って二つあると思います。

一つは、嘉手納村という地域に着目したことで、B52撤去運動が地域からどのように広がったのかについて、当時の切迫した米軍基地の状況と住民生活のありようを重ねあわせて描けたことです。すでに触れたように、この地域において基地被害は日常化していましたが、B52がベトナムへの出撃を繰り返し、また弾薬を積んだ車両が日常的に道路を往来する。こういった「生活に戦争が入り込む」と当時形容された状況のなかでB52が墜落し、爆発炎上したのです。

当時の新聞や私が行ったインタビューからは、「戦争が起こった」「ベトナムから爆撃がきた」といった爆発事故とベトナム戦争を結びつける語りや、事故現場にあがっていたキノコ状の雲から原爆や核兵器を連想するような証言が出てきています。こういったはかり知れない恐怖のなか、B52撤去運動は村役場や労働組合などだけでなく、中学生や高校生による集会・討論会の開催、教員らによる直接行動(ストライキ)や女性たちによる集会・デモといった、さまざまな主体や抗議の形態をとって自発的に展開されていきました。のちにゼネストを引っ張っていくことになる「生命(いのち)をまもる県民共闘」の結成を支える裾野として、嘉手納村におけるB52撤去運動の広がりがあったこと。それを明らかにできたことが一つの発見でした。

――もう一つは何でしょうか。

秋山:それは、1969年の2・4ゼネスト回避の理解に関わるものです。この本では、従来から指摘されている屋良主席によるゼネスト回避の要請や全沖縄軍労働組合(全軍労)の離脱といった、政治的もしくは組織的な動きに限定せず、嘉手納村という地域とゼネストが置かれていた社会経済的な状況にも着目しました。意外と知られていませんが、当時嘉手納では、米兵向けの店も多く、貸住宅組合や通り会が「ゼネスト開催は地域を混乱させ、生活や経済活動を破壊する」と訴えて村議会にゼネスト回避を要請し、その要請が通っていました。また、さきほど触れたイモ・ハダシ論に同調し、基地撤去反対を表明していた経済界の一部からも、ゼネスト決行による「経済的損失」が語られ、ゼネスト準備指令の直前まで回避の要請が繰り返されていました。

ゼネストへと向かうB52撤去運動を組織的な動きにとどまらないものとして捉えたからこそ、地域や経済界からゼネストを掘り崩そうとした動きも明らかにできたと思います。

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