著者に聞く~『基地社会・沖縄と「島ぐるみ」の運動』

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明治学院大学の秋山道宏さんの著書基地社会・沖縄と「島ぐるみ」の運動』(八朔社)が2019年3月に発刊された。獨協大学の平良好利さんの質問に、秋山さんが答える形で同書の読みどころを紹介する。

 

執筆の動機と「生活」「生存(生命)」への着目

 

――(聞き手:平良好利、以下略)今回の新著を手に取ってみて、「はじめに」の冒頭で取り上げられている次の言葉にまず目がとまりました。「私はたしかに政党人で、しかも保守系だが、なにもロボットではない。村民に背は向けられないよ。B52をどけるために効果があれば、村民大会もやるし、ほかの集会にでも参加する」。これは、1968年11月のB52墜落事故後に当時の嘉手納村長であった古謝得善さんが発した言葉だということですが、なぜこの言葉から書き起こしていったのでしょうか。本書を執筆された動機とも関わってくると思いますが。

秋山:元々、現代の「オール沖縄」や「島ぐるみ」の運動と呼ばれる辺野古新基地建設反対の動きが、どういった歴史的な流れのなかで進んでいるのか、ということに強い関心がありました。けれど、いつの時期を、どのような切り口から扱ったらいいのかと思い悩んでいたところ、日本復帰前後の10年分の新聞記事を読み漁っているなかで出会ったのが、この古謝村長の言葉でした。

1960年代後半から日本復帰にかけての時期については、保守と革新との対立が浸透していく時期であると、すでに先輩方の研究のなかで指摘されていました。ですので、古謝村長が「政党人」や「保守系」というアイデンティティを打ち出したことには納得がいったのですが、その一方で、「ロボットではない」「村民に背は向けられない」として、彼をB52撤去運動に駆り立てたのは一体なんだったのだろうか、という疑問が出てきました。感覚的なひらめきに近いものでしたが、この言葉が発せられた歴史的な文脈を丁寧にたどることができれば、現代に連なる「島ぐるみ」の動きも読み解けるのではないか、と思いました。

――保革対立の構図でみてしまいがちなこの時期を捉え直す一つのきっかけが、この古謝村長の言葉だったのですね。では、実際に研究を行うなかで、どのようことが浮かび上がってきたのでしょうか。

秋山:その点は、本書全体のテーマにも関連してくる大事なところですね。この古謝村長の言葉を読み解いていくには、同時期に争点となっていた復帰運動や三大選挙(行政主席・立法院議員・那覇市長の選挙)といった、いわゆる大文字の「政治」をめぐる動きだけでなく、人びとの置かれていた「生活」や「生存(生命)」のありようをみていく必要がありました。

B52墜落事故の前、1968年8月に嘉手納村長選挙が行われましたが、沖縄自民党の西銘順治総裁は、「米軍基地がなくなれば、戦前のようにイモを食い、ハダシで歩く生活に逆戻りする」という応援演説をしました。いわゆるイモ・ハダシ論です。この選挙で古謝さんは村長として当選するのですが、まさにこの時期に「生活」の維持やそのありようが米軍基地との関係で鋭く問われていました。それと同時に、嘉手納村という地域は、1960年代半ば以降、ベトナム戦争が激しくなるなかで1966年5月にはKC135空中給油機の墜落事故で村民1人が亡くなり、その直後には基地補修工事で生じた砂ぼこりによって生活にも長期的な被害が出ていました。また、日常的な生活の面で爆音も常態化し、ジェット燃料が井戸に漏れ出すなど(いわゆる「燃える井戸」)、基地公害と呼びうる状況も出てきていました。B52が飛来し常駐体制をとっていくのは1968年2月以降ですが、日常化する基地被害のなかで、「生活」をいかに維持するのかと同時に「生存(生命)」をどう守るのか、ということも問われていました。古謝村長の言葉は、まさに「生活」と「生存(生命)」をめぐる緊張関係のなか、B52の墜落・爆発炎上を目の前にして発せられたものだったのです。

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