「沖縄社会論をないちゃーが書く怖さ」
打越さんと調査の話をすると、「ないちゃー(本土出身者)」であることを非常に意識していることが伝わってくる。時折、主語が「私」ではなく「ないちゃー」に変わる。
「例えば、彼らの待遇の悪さから見えてくるのは、内地のゼネコンと県内中小零細企業の間にある不公平な関係です。それは一見すると「公平な」入札制度の形をとりますが、戦後の焼け野原から創業した沖縄の建設業と、戦後の沖縄にすぐに乗り込んできた内地の建設業とでは完工実績や会社の規模がものをいう業界では勝負になりません。何が公平なのか、考えなければならないと思います。そしてそのような到底公平には見えない仕組みを維持し放置していることこそが、構造的な差別だと思います。だからこの本は、まずは本土出身者に読んでほしいと思って書きました」
「あと沖縄の人びとの生活感覚を外したままで研究することに対する恐れをもって研究しています。それはいまだにありますけど、地に足のついた視点から言葉を発しないと、研究に限界が出てくると思ってきました。だから、私は徹底的に調査をする道を選びました。彼らの生活感覚を外さずに、沖縄の貧困や構造的差別といった問題を考え、書くことを続けてきました」
10年かけて得たモノ
調査方法は、解体屋の仕事で身体を動かしながら、彼らの話や生活から見えていることを記録することが基本になっている。パシリと調査者を兼ねているため、歩いていても、バイク倉庫でトランプをしても、キャバクラに行っても、常に話を聞き、彼らの振るまいの全てが調査対象だ。しかし、動きながら一つ一つ記録するという難しさは否めない。
「建設の仕事が終わるとその日のうちに、帰る途中のマクドナルドや自宅で頭に残っていることを一つ一つ書き出しました。キツいときは、いったん寝て、そのあとに作業しました。始めの頃は録音が許されていなかったので、仕事の途中でトイレに行ったときに携帯のメモ機能に打ち込んだり、本人の前でもメモを書いたこともありました」
打越さんは、起こしたメモを毎回、彼らに全て見せていた。こんな下ネタや武勇伝をしましたよ。これだけメモを取っているんですよと彼らに伝えた。録音の許しをもらえるようになったころには、パシリになってから5年が過ぎたころだった。
「彼らが諦めたんでしょうね。最初のころのフィールドノートはスカスカですよ。本の前半に出てくる拓哉の話は、(調査の了解はとっていますが)録音できていないころで、短文でしか書けていないんです。でもある時、一部のメンバーに『お前、どうせ録音したいとか言うから、ずっとテープ回しとけ』と言われるようになって、ICレコーダーをオンにして一緒に行動できるようになりました。居酒屋でもずっと、録音させてもらいました。それがあったから、彼らのウチナーグチをそのまま盛り込むことができました」
「この本ができるまで10年かかったんですけど、普段の彼らの話は、自分の武勇伝、女性経験の内容が中心でした。ただ、そのような話の間に、『将来どうしよう」、『風俗経営もそろそろ潮時かと思ってる」とか、ポツリとこぼれてくる弱みや悩みも聞かせてもらいました。10年くらいたって、そのような話も聞かせてもらえるようになりました。そしてそのような話を書くことを了解してくれました。10年間、彼らが悩み葛藤しながら懸命に生きる場面を隣で見せてもらってきたので、そのような姿も少しでも伝えることができればとてもうれしいです」