首里城と鎌倉芳太郎

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賛美の視線だけではなかった

香川県出身の鎌倉が東京美術学校(現東京藝大)を卒業し、沖縄県女子師範学教諭兼同県立第一高等女学校の美術教師として沖縄に赴任したのは1921年。22歳のときだ。首里の王家を始祖とする座間味家に下宿した2年間、琉球王朝が築いた文化・芸術研究に没頭。首里の人たちが日常使う「首里言葉」も体得した。

鎌倉は、修復費を捻出できずに荒廃が進む首里城にも強い関心を寄せる。波照間さんは当時の沖縄の状況をこう解説する。

「日清戦争(1894~95年)以降は特に、沖縄で中国的なものを排除し、純日本的なものの価値を称揚していく流れが顕著になりました。そうした中、首里城も残念な評価を受けることになったのです」

明治期の「琉球処分」(1872~79年)によって日本に組み込まれた沖縄では、日本との一体化を推進する政策が図られていた。明治末期以降は、首里城内に沖縄県社を創設する案が浮上するとともに正殿の取り壊しが検討されるようになる。

1923年6月、いよいよ首里城の取り壊し作業が始まった。東京でこの動きを知った鎌倉は、師であり共同研究者でもある東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)に報告。伊東は内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。内務省の「取り壊し中止命令」の電報が沖縄県庁に届き、本格的な取り壊しは寸前で回避された。

鎌倉は大正末期の24年4月、財団法人啓明会から「琉球芸術調査」の補助を受け、再び沖縄に赴く。東京美術学校助手として1年半近く、琉球国王だった尚家ゆかりの所蔵品などを調査、撮影した。このときの調査と1926年~27年にかけて行われた第2次調査によって収集されたのが、冒頭の「鎌倉資料」だ。

鎌倉が東京に持ち帰った資料は戦時中、都内の自宅敷地内の防空壕や東京美術学校に保管し、焼失を免れた。この資料が、沖縄戦でほとんどの資料が灰燼に帰した戦後の首里城復元に決定的な役割を果たす。

とりわけ大きな力になったのが、1768年の正殿大修理を記録した「寸法記」だ。A4サイズほど(19・7×27・4㌢)の和紙をとじた冊子には、柱や壁の位置を記した平面図や細部の寸法、瓦のふき方に至るまで詳細に記録。今回の火災で焼失した正殿の向拝前面にあしらわれた唐獅子や牡丹、柱の昇り龍の図柄だけでなく、色の指定も事細かに書き込まれていた。

岩波書店で初めて「寸法記」を開いた際、波照間さんは『沖縄文化の遺宝』に収録された正殿のモノクロ写真からは想像もつかない、朱や金で彩られた首里城の姿に思いをはせ、「この資料があれば復元できる」と確信したという。

波照間さんはその後、寄贈資料を扱う県立芸大附属研究所所長として、『鎌倉ノート』を編纂した『鎌倉芳太郎資料集』全4巻を刊行。大学ノートに万年筆でびっしり書き込まれたページを1枚1枚めくり、その正確さと細かさに感嘆したという。筆写は何度も校正され、1字、1角に至るまで朱の直しが入れられていた。

1992年。ベンガラ漆で朱色に塗り上げられたきらびやかな正殿がお披露目されると、石垣島出身の波照間さんには、研究者としての感慨とは別に、複雑な思いもよぎったという。

石垣島を含む沖縄県の宮古・八重山地方は琉球王朝時代、差別的な税制に苦しめられたからだ。1500年には八重山地方の当時の首領オヤケオカハチが貢租を拒否し、首里王府に討伐された。石垣市内にはオヤケオカハチを英雄とたたえる碑も建立されている。波照間さんは「子どものころから、首里王府に何百年も虐げられた歴史を聞かされて育っているので、首里城を見る目は単なる賛美の視線だけではありませんでした」と当時の思いを語る。

ただ30年近く、毎日のように職場から首里城を眺めるうち心情に変化が生じたという。

「首里城は単なる王権の象徴というレベルを超え、ウチナーンチュ(沖縄の人)のアイディンティティーを象徴する存在だととらえるようになりました。これは私だけではない、と思います」

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