穀雨南風⑫~筑紫哲也が最期に沖縄について語ったこと

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てぃんさぐぬ花

きっかけは一通の手紙だった。沖縄の特派員時代に住んでいた家で家政婦をしていた女性が、彼の病を知って見舞いの文面を送ってくれたのだ。手紙には慰めの言葉とともに、「私は筑紫さんたちのおかげさまで、この歳まで生きているのです」と記されていた。

一家が「おばあ」と親しみを込めて呼んでいたその女性に、筑紫さんは家族と一緒に会いに行く。すでに抗がん剤の投与で、激しい副作用をおしての旅だった。

 再会はどんな様子だったのか。

 ドキュメンタリーの取材の中で、今は沖縄の北部に住むこの女性にも話を聞いた。糸数志ずさん、100歳。大らかで、笑うととても可愛らしい笑顔をみせた。

志ずさんに筑紫さんとの思い出を聞くと、「最初は怖かったよ」と切り出した。「でもお仕えしたら、いい人でねえ。おばさん、タバコも吸って、お酒も一杯飲んでから、お仕事やりなさいよと言ってくれて、ああ、優しいねって思ってね」

 筑紫さんは沖縄が大好きだった、と志ずさんは言う。

「沖縄の歌もよく歌ってらしたよ」

「どんな歌を歌っていたのか、よかったら歌ってみてもらえませんか」

私がそう言うと、彼女は『てぃんさぐぬ花』を慈しむように口ずさんだ。

 志ずさんは、筑紫さんのやつれた様子から、死が遠くないことを悟ったと話す。

「いつまでも元気でいてくださいよ。病気に負けちゃ、いけないよ」

そう言うと、筑紫さんは涙を流していたという。

別れのあいさつをしたあと、家族が外に出て車に乗っても筑紫さんはひとり残り、しばらく門の前に佇んでいたという。

「これがお別れだった」

 志ずさんはそう言って、涙を拭った。

 彼女は筑紫さんの夢を見たばかりだと話した。

「家の近くにある広場に筑紫さんがいらして、歌を歌っていた。沖縄の民謡をぜんぶ。筑紫さん、家に入りなさいよと言っても聞かない。にこにこ笑ってね」

 そう言って、志ずさんは感謝するような口調で言った。「夢も見せてくれたよ」

志ずさんと再会した翌年、筑紫さんは亡くなる。

人生を変えた沖縄。

その沖縄への最後の旅で、筑紫さんの胸に去来したのは何だったのか。

そして、沖縄にもう一度、住みたい。闘病生活のなかで、もっと言えば死の影が忍び寄るなかで、そう思わせたものは何だったのだろうか。

沖縄を心から愛した筑紫さんが亡くなって、はや11年になる。

【本稿はTBSキャスターの松原耕二さんが沖縄での経験や、本土で沖縄について考えたことを随時コラム形式で発信します】

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