今年も筑紫哲也さんの命日に、お宅にうかがった。先月のことだ。いつものように線香をあげたあと、妻の房子さんからこんな話を聞いた。
晩年、筑紫さんは「沖縄にもう一度、住みたい」と話していたという。
筑紫さんは朝日新聞の特派員として、返還前の沖縄に赴任した。そして帰任後も沖縄にこだわり続け、「NEWS23」のキャスター時代には、他のどの番組よりも沖縄を取り上げ続けた。ときに聞こえてくる“沖縄偏重”という社内外の冷ややかな視線を気にすることもなく、いや、筑紫さんはそれを楽しんでいたのかもしれないとさえ思う。
そんな筑紫さんが沖縄にもう一度、住みたいと、亡くなる前に話していたというのだ。
それがリアルな願いだったのか、それとも沖縄への強い思いを表現した言葉だったのか、私にはわからない。でも、沖縄のためにまだ何か出来ることがあるのではないか。肺がんと闘いながら、筑紫さんはそう口にしていたという。
もう6年も前になるけれど、筑紫さんの足跡をたどる番組に、私は取材者として参加した。筑紫さんが病床でひそかに綴っていた闘病ノート「残日録」をもとに、ゆかりの人々にインタビューを重ねていく、そんなドキュメンタリーだった。
当然のことながら、沖縄にも足を運んだ。かつて住んでいた家、記者仲間、筑紫さんの取材を受けたウチナーンチュなど、彼と関わりのあった場所や人々を訪ね歩いた。
その旅を通して私が感じたのは、筑紫さんにとって沖縄は、単なる取材対象としてだけでなく、彼の人生にとって特別な意味をもつ場所だということだった。
朝日新聞に入社したあと、筑紫さんは内向的な自分は記者に向いていないという思いを抱き続けた。10年やってその思いが変わらなければ、記者を辞めよう。沖縄に赴任したとき、彼はそんな思いを胸にひめていた。
ところが沖縄で、筑紫さんは生まれ変わったように、いきいきと過ごすことになる。沖縄の持つ自然と文化、人々のおおらかさが心地よかったということもあるだろう。
しかし何より、本土復帰前のダイナミックな動き、そして沖縄にこの国の矛盾が凝縮しているさまを体感したことが大きかったと感じる。そう、沖縄での生活を通して、彼は記者という仕事の醍醐味を初めて味わったのだ。もし沖縄赴任がなかったら、その後の彼の人生はかなり違うものになったのかもしれない。
その沖縄を、筑紫さんは亡くなる1年ほど前に訪ねている。