沖縄の“政治”を生きる若者の歩み

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2018年の春に内地の大学を卒業した私は、写真活動と琉球・沖縄史の勉強を続けるために地元那覇に戻った。卒業したてのころは、この1年どういう生活が待ち受けているのか、全く想像だにしていなかった。しかしその後「辺野古」県民投票の会のメンバーに加わり、県知事選挙では玉城デニー現沖縄県知事の青年部として活動した。まだ25歳の若いウチナーンチュの私が、どのように“沖縄の政治”に関わるようになり、この1年なにを見て、この地で歩んできたのかを振り返りたい。

父の沖縄戦体験と記憶の重み

 私は高校まであまり沖縄の歴史について勉強した記憶はなく、基地問題や政治のことはほとんどわからなかった。沖縄で生活していて、戦闘機が上空を飛ぶとうるさいと思うことや、事件や事故も起こっているらしいという程度の認識だったであろうか。しかし、学校で詳しく習うことはなくとも、私の父は高齢で沖縄戦を経験していたため、家で時々どういう風に生き延びてきたのか話を聞いて育った。

父は、5歳のころ沖縄戦で両親と兄弟を失い、戦争孤児となり叔父に育てられた。モノも無い時代とことん働かされ、父の後頭部には沖縄戦時に受けた鉄くずと、心には深い傷もまだ残っているようだ。

高校卒業後は沖縄を離れ静岡にある大学に入学、国際関係学を専攻した。地元を離れて生活することで初めて見る景色に感動したり、思いがけず沖縄との違いを知ったりした。富士山の大きさや空の高さ、電車が走る音や川のせせらぎはとても新鮮に感じた。大学にはいろんな地域から学生が集まっており、それぞれの故郷について話すことが度々ある。

「沖縄って海が綺麗でとてもいいところだよね。ソーキそば好きだよ」などと言われることが多いが、「振興予算もらってるし、安全保障的にも米軍基地があるのは仕方ない」「基地被害や沖縄戦をいつまでも引きずるべきではない」と言われることもあり言葉に詰まった。

翁長雄志知事が当選し政府と交渉を進めるようになり、ネット上にデマや誹謗中傷が増えてきたころ。心ない言葉に傷つくことも何度もあった。しかし、彼らは悪気があって言っているのではないのではないか。私が静岡に来て空の高さや電車の走る音を知らなかったように、沖縄の現状を知らないのだと思った。

 自分自身、沖縄に生まれ育ったけれど、島の歴史や基地問題についてあまり知らなかったことを痛感し、大学の授業の合間を縫って琉球・沖縄史や基地問題について勉強するようになった。勉強を通して沖縄戦や戦後史について知ることで、父の体験を深く知ることができ記憶の重みを感じられるようになった。

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