司法が認めた沖縄戦の実態⑤

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沖縄戦の被害について国の責任を求めた裁判で、2018年、最高裁判所は、国の責任は認めなかったものの、沖縄戦の被害については原告の訴えを認める判決を出した。つまり司法が沖縄戦の悲惨な実態を認めたということだ。では、裁判所が認めた沖縄戦の実態とはどういうものだったのか。この裁判をフォローしてきたジャーナリストがシリーズで伝える5回目。

米軍の猛攻にさらされた摩文仁

「砲弾や爆風などで1日10人ぐらいの人が亡くなった」

75年前、11歳だった山城照子さんの記憶だ。

山城さんは沖縄戦が始まる前から、摩文仁に住んでいた。旧島尻郡摩文仁村波平。現在の糸満市南波平だ。母カメ(当時31歳)、妹ツギ子(同7歳)、弟憲正(同5歳)と暮らしていた。父善次郎(同32歳)は本土防衛のための兵隊としてとられ、沖縄にいなかった。善次郎は同姓同名の別人と勘違いされての招集だったということで、実際には兵隊にはならなかったということだが、何れにせよ山城さん一家は母のカメが女手一つで守るという状況だった。

1945年5月22日、米軍の猛攻にさらされた日本軍は、首里で「玉砕」するのではなく、県南部への撤退を決めた。本土決戦準備の時間稼ぎを行うためだった。日本兵約3万人と10万人と推定される住民が摩文仁を含む県南部に移動した。住民を巻き込んだ沖縄戦最後の激戦となる。山城さんはその生き証人となる。

米軍が沖縄に上陸するのは4月。この頃から、山城さん一家は部落内に親戚も避難できる大きな壕で生活をしていた。部落の家々には、県内から県南部に逃れてきた避難生活をしている人もいた。そこに米軍が砲弾を浴びせ始めた。冒頭の山城さんの言葉は、当時の惨状を振り返ったものだ。

遺体はそのままにしておくとすぐに腐敗した。山城さんは遠い親戚にあたる同級生の男の子と2人で、遺体を部落近くの山の中に運んだ。部落には、男性は兵隊にとられておらず、赤ちゃんを抱えた女性が多く残り、山城さんと同級生は貴重な働き手だった。弾が飛び交う危険な中、遺体を朝から晩までかかって山に運んだ。穴を掘ることもできず、そのまま並べて置くしかなかった。遺体に向かって手を合わせた。

「こんなところですみません。休んでください」

ある夜、山に遺体を運んだ時、水たまりを見つけ、その水を飲んだ。家族にも飲ませようと持って帰った。灯りの下でその水を見てびっくりしたという。

「真っ赤な水だったんです」

山の中では暗くて気付かなかったが、戦死者の血が混じっていたのだ。

日本軍が南部撤退をすすめていた5月末ごろ、山城さん一家と親戚が避難している壕に日本兵が4人やってきた。「鈴木軍曹」と名乗り、部下3人を引き連れて来た。

「この壕は私たちが使うから出て行くように」

鈴木軍曹は壕に入ると強い口調で命令した。この連載で頻繁に登場する日本軍の命令だ。日本軍は住民を追い出すことを当然のこととしていた。しかし、外は砲弾の嵐だ。母のカメは必死に訴えた。

「壕を出たら生きていけない。半分ずつ使いましょう」

カメの切実な願いに、鈴木軍曹はしぶしぶ承知した。日本兵4人は当然の様に、壕の奥の安全な場所を占拠した。山城さん一家らは壕の入口近くの危険な場所で暮らさざるを得なかった。

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