司法が認めた沖縄戦の実態③

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例えば、今、私たちは新型コロナウイルスに感染することを避けるため、外出を自粛している。ただ、実際には外出して直ぐに感染するわけではない。 では、例えば、あなたが家にいて、家から一歩でも出ればウイルスに感染するとする。その時、あなたは銃剣を突き付けられて「家から出ていけ」と言われたらどうだろうか?しかも、外のウイルスは感染しても8割が無症状などという安全なもの」ではない。出たら、恐らく最後・・・瞬間に感染して死ぬ危険が有る。 原告の一人、内間善孝さんの体験は、まさにそれだった。それを陳述書に書いている。内間さんの家族は日本兵から壕を追い出され、弾が飛び交う戦場に放り出されたのだ。

「日本兵に『壕を出て行け』と命じられた」

内間さんは当時9歳。島尻郡(現糸満市)与座に父津波古充光(大正元年生まれ)、母マカト(大正3年生まれ)、長女貞子(6歳)、次男次郎(4歳)、三男三蔵(2歳)の6人で暮らしていた。1945年4月、父が防衛隊に召集され、残された家族5人と母の妹の6人で、家の近くの壕に避難。壕はかなり広く、住民30人ぐらいが避難していた。

6月に入り、父の戦死が知らされた。同じ頃、壕に数人の日本兵がやって来た。数日間、日本兵と壕での生活が続き、日本兵のために食糧を提供したり、糞尿の片づけなどをした。ある日、日本兵が母に向かって言った。

「4人も子どもがいて、敵に見つかったらどうする。壕を出て行け」

日本兵に逆らえず、壕を出た。それはまさに致死率でははるかにウイルスを上回る砲弾、銃弾の嵐の中だ。内間さん家族は戦場を逃げまどうことになった。

逃げ惑う

壕を出て直ぐに米軍の飛行機から機銃掃射されている。その時は間一髪、小さな壕に隠れることができた。しかし米軍は民間人に対しても容赦しない。さらに機銃が襲う。銃弾がはね、煙が壕の中に入って来た。

「非常に恐怖を感じた」

内間さんはその時の思いを書き留めている。そして、家族とともに安全な場所を求め、与座から隣の大里へと皆で歩いた。

その道中は地獄だった。道のあちらこちらで大勢の死体。死体のにおいも覚えている。加えて、さく裂した砲弾の硫黄のにおい、そして草が燃えるにおい。これらが混ざり合い、あたり一面で異様なにおいがした。

ブーンと低い音を立てて破片が飛んでくる。それは米軍の艦砲射撃の砲弾がさく裂して飛び散った破片だった。何個も飛んできた。

「当たったら死ぬ」

命がけで、大里から隣の国吉へ。進むほどに死体の数がさらに多くなる。艦砲射撃の破片はどこまでも飛んできた。夜になってもそれは終わらない。照明弾が飛んできて、辺り一面を明るく照らすのだ。

「今にも見つかって撃たれるのではないか」

再び国吉を離れ、隣の真栄里へ。大きな民家はすでに避難してきた人でいっぱいだった。内間さん家族が入ることはできなかった。

再び、国吉へ引き返す。もうどれだけ歩いたかはわからない。そしてやっと見つけた大きな屋敷に入った。避難住民と日本兵がすでに身を隠していた。

その夜、艦砲射撃がこの屋敷を直撃し大破。屋敷の前の小屋も破壊。小屋に避難していた赤ちゃん連れの母親が亡くなり、息子であろう男の子が赤ちゃんを連れて来て、内間さんの母に「おっぱいをあげてほしい」と頼んできた。母が授乳し、男の子はお礼を言い、赤ちゃんを亡くなった母親のもとに置き、去って行った。その赤ちゃんはどうなったのか・・・そんなことを考える余裕は無かった。

翌朝、屋敷の外では米軍の戦車が走行していた。ここも危ない。再び、大里へ。そこで避難した一軒家に艦砲射撃2発が落ち、目の前でそこの家族2、3人が亡くなった。もう驚くことは無かった。

その後公民館近くの壕に入った。ところが米軍に包囲された。結果的には、それが内間さんを助けることになる。

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