司法が認めた沖縄戦の実態②

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なぜ 、大阪から沖縄へ行くのか

「沖縄戦での被害者の傷は癒されることなく続いている」

それは小冊子に書かれていた。2009年だったと思う。私は大阪の放送局で記者をしていて、太平洋戦争中に起きた大阪空襲の被害者を取材していた。それは太平洋戦争中の被害者について書かれた小冊子に記されていた。

その時は私自身、沖縄戦をめぐる訴訟を取材することになるとは思ってもいなかったが、その言葉は心のどこかにひっかかっていた。

それからしばらくして私は記者の仕事を外れた。本意ではなかったが、会社の人事の都合と割り切って、辞令通りの業務に着いた。

それでも、大阪空襲訴訟には関わり続けた。それは取材者というより、原告を支援する側といった役回りとなったが、自分の中ではそうした立場はどちらでも良かった。

戦後補償。日本が中国や韓国など国外から常に突き付けられてきた問題。しかし、それは国内でも突き付けられてきたことをどれだけの人が認識しているだろうか?

戦後補償がなされた日本人はいる。軍人軍属だった人だ。そういう人たちには手厚い援護がある。しかし、空襲の被害を受けた一般の人には何らの補償もされていない。

私が大阪空襲訴訟に関わり続ける理由はそこにある。泣き寝入りさせられる人々、その現状にまったく納得できないから、戦後補償問題にかかわり続け、それが沖縄に続いている。

ここで簡単に、2008年提訴の大阪空襲訴訟について触れておきたい。大阪空襲でけがをして障がい者となった被害者や孤児となった被害者が、国を相手に謝罪と補償を求めた裁判だ。生後2時間の時、焼夷弾が落ち、片足を奪われた女性や家族が焼夷弾で亡くなり孤児となった女性、指が自由に動かなくなり、顔がケロイドとなった男性…。

爆弾の破片が飛んできて左足を失った女性、当時6歳。「私の足はトカゲのしっぽみたいにまた生えてくる」と信じていた。「どうして戦争を止められなかったの?」と母親に聞くと「知らないうちに始まっていた」

こうした空襲被害の訴訟は、2007年、東京大空襲の被害者も国を相手に裁判を起こしている。そして東京大空襲訴訟は2013年、大阪空襲訴訟は2014年、いずれも最高裁で敗訴が確定している。空襲被害者の訴えは退けられた。裁判で負けた後も、原告だった人々は立法運動に取り組んでいる。

そして沖縄戦だ。東京大空襲訴訟の弁護団にいた沖縄出身の瑞慶山茂弁護士らを中心に、訴訟の準備が進められた。

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