司法が認めた沖縄戦の実態⑤

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戦後も続く被害

山城さんには、二度と思い出したくない戦場の光景がある。山に遺体を運んでいたある日、砲弾を受けて亡くなった母親のお乳を飲もうとすがりつく赤ちゃん。赤ちゃんは与えられた水を口にせず、腐敗している母親のおっぱいを吸い続けた。思い出してしまうと、今でも精神的に不安定になることがあるという。

沖縄戦で受けた負傷の跡は戦後も残った。前頭部に1か所、両足合わせて6か所の傷だ。杖なしで歩くことは難しい。階段の上り下りは手すりを使っても困難だ。若い頃は頭を少し動かしただけでも頭痛がひどく、高校を卒業してから始めた仕事も集中することができなかったという。40代になると、痛みから仕事もできず、ほとんど寝たきりのような生活となった。

戦後70年にあたる2015年、精神科医の診察を受けた。山城さんは40代から50代の20年間寝たきり状態だったが、これは沖縄戦によるフラッシュバックやパニック障害などが出現し、そのことの一環として頭痛も出現したと思われると診断された。蟻塚亮二医師は、山城さんの頭痛について「沖縄戦で受けた激しい心理的な痛みによって引き起こされたと見られる」と話している。

「障害年金は難しい」と県援護課

2010年、山城さんは援護法に基づく障害年金の申請手続きをするため、沖縄県に相談した。援護法では、日本軍に食料を提供した住民を「戦闘参加者」として援護法の対象としている。実際には山城さんのように、日本軍に食料を提供したのではなく、食料を奪われたり、日本軍に危険な屋外で食料を採るよう命令されたのだが、何れにせよ、提供したと認定されれば援護法の対象となる。

ところが県の福祉援護課の担当者は消極的だった。

「認定は難しいです」

日本軍に協力したかどうかの認定がなかなか難しいという。また、山城さんの病状も加齢によるものか、沖縄戦によるものかの認定も難しいという。

結局、援護法とは何なのか?山城さんはその思いを強くして認定申請を断念した。残る道がこの沖縄戦による住民の被害を訴える裁判だった。

山城さんは陳情書で訴えている。

「私は国から謝罪も何らの補償も受けていません。謝罪の証として償ってほしい。そうすると私は身も心も楽になると思います」

【本稿は『InFact』からの転載です】

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