一方、地元の記者はこう指摘する。
「地元業者から突き上げられた本島南部の県議らから、『県連内でもっと議論してから防衛局へ行くべきだった』との批判も上がっていましたが、自民党県連としては県内世論に押されたというのが本音のようです」
沖縄世論に敏感に反応した例として最も顕著なのは、今年7月に選挙を控えている那覇市議会だ。
那覇市議会は3月22日、「沖縄戦の戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないよう求める意見書」を自民党会派の5人を含む全会一致で可決した。
那覇市議会の保守系議員の一人は「全会一致」となった流れをこう振り返る。
「共産党会派(7人)が提案してきた当初の意見書案を、自民会派は一蹴すると思っていたら協議に乗ってきたので驚きました」
協議の結果、「これならぎりぎり乗れる」という文案を自民側が提示し、全会一致の実を得たい共産側が逆に折れた、というのだ。
自民がこだわったのは、意見書のタイトルにも本文にも「辺野古」や「米軍基地」といったワードを盛り込まないことだったという。しかし、肝心の部分がぼかされると意味が通じない。このため意見書には、具志堅さんの言葉を借りる形で次のような「訴え」が盛り込まれている。
<遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松氏は、「戦没者の血や骨粉を含んだ南部の土砂を遺骨とともに埋め立てに使うのは、県内のみならず、国内外にもいる遺族の心を傷つける人道上の問題だ」と訴えている。これは、戦争の犠牲になられた全ての方々に心から哀悼の誠を捧げている遺族と市民、県民の思いであり、平和を希求する「沖縄のこころ」でもある>
意見書で注力されているのは沖縄戦に関する下りだ。
<沖縄戦では、日本軍が本市首里の地下壕に構えていた司令部を5月22日に放棄を決定し、「南部撤退」を行い、その結果、糸満市や八重瀬町など本島南部地域に多くの住民や日本兵が追い込まれて戦闘に巻き込まれ、その犠牲者は、組織的戦闘が終結したとされる 6 月23日までの1ヵ月間で県内全戦没者の半数を超えている>
日本軍の「南部撤退」に触れた後、戦後の慰霊の取り組みも丁寧につづられている。
<生き残った県民は、終戦後いち早く、悲惨極まる激戦地となった糸満市や八重瀬町など南部地域から戦没者の収骨を進め、魂魄の塔をはじめ慰霊碑を次々建立し、戦没者の霊を弔ってきた。しかし、いまだ完全に収骨は終わっておらず、戦後 76 年が経過した今でも戦没者の収骨が行われている>