なぜ分断の道を選ぼうとするのか

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行政――2つめの線

 次の大きな流れは、中央・地方を問わない行政の強圧的な姿勢であり、恣意的な解釈変更による行政執行(処分・措置)である。ここで取り上げるのは全体のごく一部ともいえ、特に美術館・博物館の展示制限や、各自治体における主催・後援・協力行事に対する直接間接の介入事例は枚挙にいとまがないといえる。

▽国立新美術館ほか各地で展示中止・差替え相次ぐ(14~)

▽自衛隊配備報道で防衛省が当該紙とともに新聞協会に抗議(14.02)

▽辺野古工事取材の妨害続く(14.08~)

▽辺野古抗議活動で参加者を逮捕(15.02)

▽菅官房長官がBPOの放送法解釈を誤解と発言(15.11、政府統一見解発表16.02)

▽高江ヘリパット工事取材で妨害相次ぐ(16.07~)

▽経産省前の原発テント撤去(16.08)

▽高江ヘリパット抗議活動で参加者を逮捕(16.10)

▽千葉市が朝鮮学園への補助金を交付取消(17.04)

▽沖縄防衛局が北部演習場内のオスプレイ写真に対し不法撮影として掲載誌に抗議(17.07)

▽戦争取材予定のジャーナリストの旅券を没収(19.02 15.02にも同様事例 その後も)

▽首相の街頭演説での野次者を排除(19.07)

▽首相会見の制限が問題化(20.02 それ以前から官房長官会見でも)

▽あいトリの補助金を不交付(20.09)

▽日本学術会議の任命拒否(20.10)

この領域についても以下の「前史」がある。

▽放送局に対する総務相の行政指導が頻発(04~09)

▽イラク復興支援特措法に合わせた従軍取材協定(07.05)

▽警視庁のムスリム監視が発覚(10.10)

 あるいは直接的ではないにしろ、内閣人事局の設置による官僚人事の一元化(14.05)や、有事法体制の再整備に伴う私権制限の常設化(15.09)が、こうした強面(こわもて)行政の後ろ盾になっていることは想像に難くない。

社会――3つ目の線

 そして3つ目が社会全体に漂う規制に寛容な市民感情である。ある意味では、これが最も厄介なものでもある。なぜならそのうちのいくつかについては、自由の制約によって公共益が担保されるという側面があるからだ。

 直近は、五輪のために一般生活が犠牲になることに対する倦厭感情が広がってはいるものの、安全・安心のためならやむを得ないという気持ちから、緊急事態措置に対してもより強い私権制限を期待する声が強い。同様にヘイトスピーチに対しても、事前規制を含む表現禁止措置を求める声が少なくない。

 こうした流れは前述の立法や行政の動きと重なり合って、社会全体の空気感を作ってはいないか。あるいは政権党がより強力に、こうした世論を後押ししている面もある。しかもそれをさらに元気づかせる報道姿勢や情報流通環境も否定できない。

▽市民団体がTBS番組は偏向との全面意見広告を新聞掲載(15.11)

▽自民党会議で沖縄の新聞潰す発言(15.06)

▽自民党が教員の政治的中立性調査(16.06)

▽名護市安部のオスプレイ墜落で不時着との政府発表に報道も追随(16.12)

▽地上波「ニュース女子」で沖縄ヘイト(07.01)

▽コンビニの成人誌扱い中止の流れ(17.11)

▽イージスアショア問題に触れた卒業式謝辞を大学側が削除(19年3月)

▽携帯各社が個人情報である人流分析データを政府に提供(20年4月)

▽街宣活動により神奈川県下で映画上映が中止、表現の不自由展が会場変更(21年6月

 この3本の線が重なり、より大きな流れとなって「いま」を生んでいるわけだ。法や行政執行の本来の役割が、表現活動の封殺ではないと信じるならば、政府施策に異を唱えることを許さない現在の息苦しさや、その結果生まれる社会的分断を緩和することこそが、為政者のなすべきことのはずだ。いままさに起きていることは、その真逆ではなかろうか(詳細な年表は、拙著『愚かな風』参照)。

【本稿は6月12日付琉球新報「メティア時評」を転載しました】

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