復帰50年の沖縄報道

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沖縄復帰50年の年を迎え本土メディアも含め様々な特集が組まれている。そこで伝えられている沖縄を、一言でまとめれば「大きく変わったが実は変わっていない」となろうが、これは言論状況にも当てはまる。

 直近の少年失明事件と沖縄署への投石等の抗議行為について、その事実関係はまだ明らかになっていないものの、ネット上では少年の証言は作り話であるとか、自業自得だといった心なき言説が飛び交う。在沖米軍由来のオミクロン株感染拡大に関する玉城デニー知事の「染みだし」発言に対しても、根拠なき米軍批判として非国民呼ばわりする書き込みが多数見られた。

 あきれや怒りを通り越した絶望的な感情にさいなまれる、根強い沖縄差別感情がネット上では渦巻いているということだ。社会的「差別」は一般に、法社会制度上の差別に由来したり、社会慣習や空気の反映であることが多いが、先の名護市長選でみられた米軍再編交付金による一時的な経済振興策は、わかりやすい公的差別の一例でもある。

 本稿では5月に向け、さらに「沖縄」への関心が高まることに比例して、沖縄ヘイトが増加するであろうことを想定し、あらかじめめ問題指摘をしておきたい。

四つの時代

 第2次世界大戦後の本土と沖縄の新聞紙面を検証すると、四つの時代に分けることができる(詳細は拙著『沖縄報道』ちくま新書参照)。それぞれ「無理解」(1945~52年)、「軽視・黙殺」(52~2005年)、「政治」(05~15年)「対立」(15年~)である。いうまでもなく最初の区分は占領(施政)下であり、主権回復を祝う「日本」にとって、切り捨てた沖縄は意識の外にあったということになる。そして復帰の後も、東京から1500キロ離れた沖縄の事件・事故は、本土にとっては関心の対象外の時代が続く。その象徴例は04年沖縄国際大学へのヘリ墜落時、東京でほとんどニュースにならなかったことからも明らかだ。

 しかしその後、沖縄のニュースが全国化することになる。端的に言えばそれは政治問題化したからである。沖縄戦をめぐる教科書検定問題で、大規模な県民集会が開催されたことはまだ記憶に新しいが、本土においてはその県民の怒りがニュースではなく、沖縄でもめていて政府が困ったことになっているという政治課題として大きな報道がなされたということになる。

 報道の絶対量が増えたことで、多くの人にとって沖縄が意識されることになったし、「沖縄で起きていること」への関心も高まったという点では大きなプラスであったと言えよう。一方で、批判や反発も高まる結果を生み、政府・政治家の沖縄攻撃が強まるとともに、それに呼応して沖縄ヘイトが生まれるという構図が生まれたとみられる。

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