一通りの説明を終え、いよいよ具志堅さんの案内で未開発緑地帯のガマに向かった。平和創造の森公園駐車場から西北西方向に走る道を歩き、山城集落方面に向かう。舗装されたこの道は、戦後作られた道で、緑地帯を横切る形で引かれたものだという。つまり、私たちが歩いている道も、戦時中人々が使ったガマを潰して作られたものかも知れず、私たちが歩いている場所で命を落とした戦没者がいた可能性も低くはない。具志堅さんが言う「(沖縄の)山自体が戦争遺跡」という言葉の意味が身に染みて感じられる。
勿論、私たちが歩いている道はこの地域の住民にとって大切な生活の足だろうし、生活の便や経済発展のために一定の開発を行うことは全否定できない。しかし、これ以上の開発は必要だろうか。まして、新基地建設といった県民の生活に資さない用途のために、戦跡が潰され、戦没者のご遺骨が砕かれることを黙認して良いものだろうか。私たちが歩いた道には全ての電柱に「遺骨が眠る南部の土砂で辺野古を埋めるな!」と書かれたオール沖縄・島ぐるみ会議のポスターが貼り付けられていた。農地や道路といった県民の生活に資する用途ではなく、辺野古新基地建設のために戦跡が壊されるということは、多くの沖縄県民にとって承服しがたいことなのではないだろうか。
まだ梅雨明けしていない沖縄は蒸し暑く、ガマに行き着く前に服は汗でびしょ濡れになってしまった。当初の天気予報とは違って晴天に恵まれたのは幸運だったが、高い湿気と強い熱射の中では、舗装道路を少し歩くだけで体力が奪われていくのを感じる。沖縄戦当時今と同じ暑さだったかは判らないが、梅雨の中、安全な道も、十分な水や食料もない状態でジャングルを彷徨い続けることはどれほど過酷だったのだろう。まして小さい子を連れたり、身重のままで終わりの見えない戦中生活を送ることが、どれほどの艱難辛苦だっただろう。
沖縄戦体験者と私との間には乗り越えられない甚大な経験の壁がある。この乗り越えられなさを虚心に認めつつ、しかし「戦後生まれに戦争の実相は判りようがない」といった開き直りに堕すこともなく、せめて戦没者の経験に少しでも近づくことを可能にする場所を残すために何が必要か。少なくとも、未開発緑地帯のガマを見るという目的がなければ、今日私はこうして沖縄戦が戦没者・戦争体験者に強いた困苦に思いを馳せて道を歩くなんてことはしなかっただろう。万一、今残っているわずかなガマが全て開発によって潰されれば、戦争非体験世代が戦争の惨禍に迫ろうとする機会すら潰されてしまうのではないだろうか。未開発緑地帯の保全は、遺骨収集・返還だけでなく、戦争の記憶継承にとって重要な意味を持つという具志堅さんの主張は正鵠を得ていると思う。
思いを巡らせながら歩いていると、「沖縄陸軍病院慰霊之塔」と刻まれた石碑が見えてきた。ここは小さな交差点となっており、平和創造の森から歩いてきた道に交わる道路は戦前からあった道だという。私たちはこの交差点で左折し、戦前の道を通りながら未開発緑地帯に分け入っていった。戦前の道ということは、沖縄戦中住民や軍人が鉄の暴風の中彷徨った道である。いよいよ戦跡に入るのだ。そう覚悟を決め、私たちはジャングルの中へと歩を進めた。