具志堅隆松さんと迎える6・23 (1) 沖縄島南部の鉱山開発現場を巡って

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沖縄戦から78年。慰霊行事もコロナ禍前の規模に戻されつつある。私も6月21日から久方ぶりに沖縄に入り、具志堅隆松さんの運動に同行している。岸田首相の訪沖に伴って警備が強化され、当初計画していたテントの設営などが出来なくなったが、具志堅さんたちは戦没者のご遺骨の尊厳や沖縄島南部の戦跡の保全のため、精一杯の努力を重ねている。そこで、何回かに分けて6月22日・23日の具志堅さんの運動の現地レポートをしたいと思う。


22日午前8時、ゆいレール美栄橋に集合し、南部へ向かった。この日の主な活動は、沖縄島南部の未開発緑地帯にまだ遺骨があることを報道関係者に見て貰うためのフィールドワークだが、その前に具志堅さんは鉱山開発の現場へ連れて行ってくれた。車を南部・糸満市方面に走らせていると、東西方向に連なる木々の帯が波のように現れてくる。沖縄南部は東西に走る丘陵地が連続する地形になっており、こうした丘陵地は沖縄戦中住民の避難場所や、南下する日本軍の陣地として使われていたそうだ。具志堅さんは運転しながら緑地帯を指さし、「ここで大分遺骨が出ましたよ」と教えてくれた。改めて沖縄の自然環境を守ることと遺骨の尊厳を守ることとが密接に繋がっていることが実感される。

40分ほど走ると米須霊域に到着。遺骨土砂問題で一番問題になった熊野鉱山がある地域だ。車窓には緑地の中に点々と石や残土の仮置き場が見える。具志堅さんは、いつでも岩石や土砂を売ることができるように貯め置いているのだと話していたが、ここに置かれている琉球石灰岩等は辺野古新基地建設や那覇軍港移設のための浦添西海岸埋め立てに使われるのを待っているのだろうか。一度地上戦の戦場にされた場所が経済的利益のために開発されていくのを見るのは忍びないが、こうした開発が沖縄に基地を押しつける国が作り出した需要に応えるものだとすれば、私もこの開発をさせ、戦跡を破壊している側に立っているのではないか。もし国が基地建設をしなければ、これほどの規模の開発はされずに済んだのだろうか。そんな疑問が頭に渦巻く。

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