6月23日。慰霊の日。沖縄戦の組織的戦闘終結から78年。沖縄県中・日本中・世界中から沖縄戦遺族が集い、戦没者を慰霊し、二度と戦争を起こさないと誓う特別な日。この日も朝8時に美栄橋駅に集合し、具志堅隆松さんと共に平和祈念公園を目指した。
車が糸満市に入ると、歩道には花を持って平和祈念公園へ歩く人たちが見え始めた。平和行進をする日本山妙法寺の僧侶の長い列。観光バスから降りる遺族会の一行。沖縄県外から来たと思われる集団もいる。雨の予報とは裏腹に、朝から熱射が強かったが、黒い服に身を包んだ人も少なくない。平和祈念公園に近づくにつれ、車列も長くなっていく。
9時前に平和祈念公園に到着。車を降り、まずは警察の多さに度肝を抜かれた。岸田首相の来沖に伴って警備が強化されるのは覚悟していたが、機動隊の車輌が何十台と公園入口に駐まっているのは、慰霊の日の朝には似つかわしくないようにも思える。平和の礎に行けば、ご遺族より警察官の方が多いのではないか、とさえ思えてしまう状況だった。腕章を良く見ると沖縄県外から派遣された警察官も多いようだ。平和の礎付近では遺族の職質まで行われたとの話を聞いたが、さすがにそれはご遺族の慰霊の妨害ではないだろうか。もし職質した警察官が県外出身だったとすれば、その人に沖縄の人をスパイ視したかつての日本兵と同じ目線がなかったと言えるだろうか。
暫く時間の余裕があったので、園内を歩くことにした。平和の礎を一回りし、大阪府出身遺族の名前が刻まれた石に手を合わせ、そこから海岸沿いへ。戦時中は海一面を軍艦が埋め尽くしていたという海岸だ。断崖絶壁を見下ろし、寄せる波を眺める。南部に追い詰められた住民たちの中には、この地域の崖から海に身を投げた人も多かったはずだ。泥沼の地上戦の中を逃げ回る人にとって、この波は死を誘う波だったのだろうか。美しい青い海は、戦没者を呑み込んだ海であり、その底にはまだご遺骨も残っているかも知れない。
私の右隣で海を見下ろす家族連れの会話がふと耳に入る。3人の子どもたちに、母が「米軍に殺されるくらいなら自分で死んだ方が良いと、たくさんの人が飛び降りたんだよ」、父が「天皇陛下万歳と言って死ぬのが、当時は格好良いとされていたんだよ」と話しかける。小学生くらいの子どもたちは、「変なの」とにわかに信じがたい様子だ。両親とも戦後生まれのはずだが、かつて戦場とされた地の風景を見ながら家族の中で戦争体験が継承されている様子を見ると、沖縄の方々の戦争や平和に対する意識の強さを実感させられる(少なくとも私は家族と地元の戦跡を訪ね、戦争の話をしたことはない)。それと共に、戦時中の出来事を「変なの」と言うことが出来る社会を守っていかねばならない、との責任感も沸いてくる。