具志堅隆松さんと迎える6・23 (5) 戦没者を慰霊し、非戦を誓う一日

この記事の執筆者

実はこの集会が始まる直前、平和の広場に来た具志堅さんに一人の戦没者遺族の男性が声を掛けてきた。男性の父は兵隊におり、豊見城城址の旧陸軍第24師団第2野戦病院壕(積徳高等女学校の生徒が配属された野戦病院)に行ったことまでは判っているが、その後の消息は不明で、ご遺骨も戻ってきていないという。具志堅さんはすかさず持参したDNA鑑定申請用紙を手渡し、厚生労働省の鑑定事業の使い方を説明する。男性は具志堅さんにとても感謝し、親族にも鑑定のことを知らせようと数枚の申請用紙を持ち帰られた。戦没者遺族は高齢化が進んでいるが、それでもなお肉親の遺骨の帰りを待ち続ける人が今もいる。南部土砂の採取は、こうした遺族の一抹の希望を砕いてしまう。DNA鑑定事業の認知度も十分に高くない今、国がまずすべきことは遺骨収集の徹底と鑑定事業の周知ではないだろうか。

この集会は現在の沖縄を取り巻く状況に対する危機感に包まれていた。集会の表題にもあるとおり、今や「戦没者の尊厳を守れ」と言うだけでなく、「新たな戦没者を作るな」とまで叫ばねばならない局面に来ている。集会の締めくくりには、戦争体験者の方がマイクを握り、「戦前生まれだから、どういう状況で戦争になるか判る」「平和は祈るだけ・願うだけでは来ない。行動しなければならない」と声を大にして訴えられた。

集会を終え、急いで平和創造の森公園に向かい、昨日に引き続き未開発緑地帯のフィールドワークを開催。内容は二日間ほぼ同じだったので、本稿では割愛する。ただ一つ書き添えておきたいことは、具志堅さんが何度か「ご遺族と会わずにマスコミとばかり喋って良いのだろうか」と口にされていたことだ。平和祈念公園に残り、ご遺族の声を聴き、DNA鑑定の申請を呼び掛けたいというのが本心であるらしい。それにもかかわらず、具志堅さんはメディアへの訴えを選んだ。そこに、「未開発緑地帯の実態を多くの人に知って欲しい」という具志堅さんの思いの強さが表れていると思う。

二日目のフィールドワークを終えて平和祈念公園に戻る。追悼式も終わり、首相ら政府要人が帰ったため、一気に警備が緩くなる。公園に入ると次から次へ具志堅さんを呼び止める方がいる。戦争体験者から私より少し上くらいの世代まで、老若男女問わず具志堅さんのことを慕っているのだ。具志堅さんが目指す未開発緑地帯の県有地化のハードルは決して低くないはずだが、たくさんの県民の方が具志堅さんの訴えに共感すると思う。後は、この輪をどれだけ全国に広げられるかだ。

沖縄のミサイル配備に関するシール投票をするノーモア沖縄戦命どぅ宝の会のメンバー
 

この記事の執筆者