東京の大学生が“沖縄ヘイト”問題を考える【下】

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 改めて問われるジャーナリズムの役割

 

ゼミ生達の活動は12月でひと段落し、彼らはすでに就職活動に向けて動き始めている。なかにはマスコミの仕事を志望する者もいる。「沖縄ヘイト」について調査・研究した今回の経験は、彼らの今後にどう生かされていくだろうか。

ゼミ生の多くが異口同音に言っていることがある。それは、今回の沖縄でのフィールドワークを通して、「現場に行くことの重要性」を学んだということである。沖縄から戻ったあとすぐにまとめた「フィールドワーク報告書」の中の次のような文章がその代表例である。

 

「『百聞は一見に如かず』…。この言葉の意味をこれほどまでに痛感させられた事は20年間生きてきた中で初めてだった。私たちの知っている沖縄の範囲を超えた、重くしかしはっきりした沖縄が、この夏訪れた場所に確かに存在していた。」

「実際に現地でメディアの方々や、辺野古で反対運動を行う方々のお話を聞くと、文献を読んでいるだけでは見えてこなかった沖縄の現状や、沖縄への無理解や無知だけでなく、自分の見識や見聞が狭いことを思い知らされた。」

 

沖縄を訪れ、現場に足を運び、当事者や関係者に直接会って話を聞いたことによって、彼らの沖縄や基地問題、「沖縄ヘイト」に対する認識は大きく変わった。今後、メディアによる沖縄関連のニュースや情報に対しても、彼らは敏感になり、時には批判的な目を向けるようにもなるだろう。そして、そうした積み重ねを通してしか、本土と沖縄のあいだの大きな意識の差を埋めていくことはできないだろう。

  他方で、「現場に行くことの重要性」を力説する彼らの話を聞くにつけ、改めてメディアとは何か、ジャーナリズムの役割とは何かを考えさせられる。「現場に行くこと」はもちろん重要だが、誰もが簡単に現場に行けるわけではない。東京にいる誰もが沖縄に行けるだけの金や時間を持っているわけではない。

現場に直接行くことのできない人達に、現場で起きていること、現地の人達の置かれた状況や声を伝え、問題を社会全体で広く共有するためにこそメディアやジャーナリズムが存在しているのではないのか。現場に行くことでしか沖縄に対する認識が変わらないのだとしたら、メディアやジャーナリズムは一体何のために存在しているのだろうか。

 インターネットやSNSの台頭によって新聞やテレビといったマス・メディアの力が縮小するメディア状況において、自分とは背景や価値観の異なる「他者」に出会い、共感・理解したり、相互に認めあったりすることは、どうすれば可能なのか。「沖縄ヘイト」問題は、メディアやジャーナリズムの役割や存在理由とは何かについて、改めて重い問いを投げかけているように思う。

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