県民投票の結果は「辺野古見直し」の後ろ盾となる大きな一歩だが、一里塚に過ぎないのも事実だ。そうした中、SACO(沖縄における日米特別行動委員会、96年に普天間飛行場の代替施設を「沖縄本島東海岸沖」に建設することなどを最終報告)のセカンドステージとして、玉城デニー知事が3月1日の安倍晋三首相との面談で初めて提案した「SACO with沖縄」(SACWO)に注目が集まる。「辺野古見直し」を政治の回路に乗せるため、玉城知事はどのような戦略を描いているのか。
SACWOで現実的に議論を進める
玉城知事が「SACWO」の協議に向けた最初のステップと位置付けるのが「辺野古」の工事停止だ。玉城知事は言う。
「SACOの点検と見直しをもう一度、日米両政府と沖縄県できちんと話し合いをする。そのことを日本政府が米政府に伝え、環境を整えることが今、最優先されなければいけない。そのためにまず、辺野古の工事を停止して静謐な環境の中でお互いが本当に話し合える状況をつくることが肝要です」
だがなぜ今、SACOの再点検なのか。背景には、SACOの原点と現状とのギャップがある。たとえば、普天間飛行場の返還交渉の当事者だった元防衛事務次官の秋山昌広氏は『AERA2016年9月5日号』でこう吐露している。
「(普天間)返還合意発表後、米軍の在沖縄基地内への移転ということだったので、一生懸命に場所探しを始めました。ヘリポートとはいえ軍のヘリは滑空して飛ぶので、ある程度の滑走路は必要になります。日本側から提案した案の一つは、700~800メートルの滑走路でした。沖縄の既存米軍施設である嘉手納基地のほか、嘉手納弾薬庫近くやキャンプ・シュワブ内では700メートルぐらいのヘリポートなら収まるだろうと考えました」
「嘉手納基地への統合に全精力を注いでいたところに、ポンと海上施設という話が飛び込んできて、それまでの作業がいっぺんにひっくり返りました。海上施設が急に出てきた背景はよく分かりません。これに呼応する形で、日米の造船業界や海洋土木業者が活発に動き始め、実際に色々な案を防衛庁の私のところにも持ち込んできました。橋本(龍太郎・当時首相)さんがなぜこれに関心を持ったかは知りません」
日米政府はSACO最終報告後に「辺野古」での新基地建設を決定。当初、「ヘリポート」と想定されていた普天間代替施設の規模や機能はどんどん膨らんだ。1998年の県知事選で稲嶺恵一知事は「15年使用期限」や「軍民共用」の受け入れ条件を掲げて当選。しかし、沖縄県が「苦渋の選択」で受け入れた条件を反映した99年の閣議決定は、2006年の在日米軍再編に伴う新たな閣議決定で一方的に破棄された。玉城知事は言う。
「そういう経緯をもう一度、再検証するべきだと思います。本当の意味で私が沖縄県知事として県民投票の結果の重さに責任を持つのは、そこ(SACWO)で現実的に議論を進めることだと思っています」