皇位が継がれゆく中で日本とは何かを考える連載「日本という国」を朝日新聞夕刊で4月初めに担当した。沖縄からの視点が欠かせないと考え、連載5回のうち1回で、祖国復帰運動を率いた政治家・瀬長亀次郎を取り上げた。米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐる県民投票があった2月下旬に沖縄を訪れ、瀬長ゆかりの人々を取材して書いた記事を紹介する。
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敗戦で日本のアジア支配が一気に縮んだ時、沖縄までが切り離された。戦中に上陸した米軍の支配が続き、1972年に復帰する。
だが、沖縄が戻りたかった日本と現実の溝はいまも深い。米軍普天間飛行場の県内移設をめぐる県民投票があった2月下旬、かつて祖国復帰運動を率いた政治家・瀬長亀次郎を知る人々を訪ねた。
「沖縄の70万人民が声をそろえて叫んだならば、ワシントン政府を動かすことができる」。瀬長が50年の演説会で叫んだ言葉を、首里の青年会役員として司会をした仲松庸全さん(91)は覚えている。
「アメリカにそんなこと言えるのは瀬長さんだけだった。拍手と指笛がやまなくてね」と、糸満市の自宅で思い起こした。
瀬長は51年の論文「日本人民と結合せよ」で沖縄の青年会員への世論調査を紹介。答えた約1万人のうち8割超が「日本復帰」を選び、「独立」などを圧倒した。
島の土地を奪い米軍基地を造る「異民族支配」への反発があった。そんな日本復帰熱の高さに、仲松さんには戸惑いもあった。
「沖縄戦の頃は17歳でした。摩文仁(まぶに)で米軍に投降しようとワイシャツで白旗を作って壕を出たら、日本兵が非国民と言って刀で切りつけてきた」
それでも、戦争放棄と国民主権を掲げた47年施行の新憲法にかけた。文部省の冊子「あたらしい憲法のはなし」を読み、「こういう日本を作りたいと思った」。