沖縄が戻りたかった祖国

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沖縄から本土を変える

瀬長の論理も同じだ。日本に戻っても米軍基地が残るという「独立論者」に反論する形で、「人民が恒久平和の擁護へ進軍すれば冷たい戦争も終わる」。だから「日本人民と結合」し、日本全土から米軍基地をなくそうと訴えた。

那覇市にある瀬長の資料館を訪ねると、館長を務める次女の内村千尋さん(74)が、万年筆を走らせた日記を見せてくれた。

「本土なみに基地を縮小し憲法が適用されると言っても反対する。我々は日本人民の立場で考えている」(67年10月26日)

だが、戦後日本には日米安保体制が生まれていた。米国は日本を守り、日本は極東の安全のため米軍基地を提供する。首相の佐藤栄作が「民族の悲願」と訴えた沖縄返還はその枠へはめ込まれた。

復帰を見越した沖縄での70年の衆院選で、瀬長は沖縄人民党委員長として当選。71年、国会で佐藤に「アメリカと対等に交渉できることを民族の独立と言う。我々はそのために戦ってきた」と迫った。「瀬長君との間に大きな隔たりがある」との答えだった。

そこから、何も変わっていない。政府は日米安保の枠内にとどまり、県民投票の結果を顧みず普天間の県内移設工事を進める。

瀬長が94歳で世を去り18年。もし存命なら、どうするだろう。

内村さんは「本土と一緒に、沖縄から本土を変える。復帰運動と同じでしょうね」と父を思う。仲松さんは「政府はおかしい、と本土の同胞もわかってますよ」と言って、笑顔になった。「瀬長さんのように国民を信じないで、どうしますか」

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この記事の関連リンクは次の通り。

○4月1~5日の朝日新聞夕刊での藤田さんの連載「日本という国」(全5回)

https://digital.asahi.com/articles/ASM3Q5CVSM3QUTFK00Z.html?iref=pc_ss_date

○上記の連載をもとに朝日新聞社のサイト「論座」で4月18日から始まった藤田さんの連載「ナショナリズム 日本とは何か」

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019040200008.html

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