「沖縄の保守」について考えている。
今回(2019年7月21日投開票)の参院選でも「沖縄の保守」は苦杯をなめた。自民党候補が無所属候補に敗北。焦点となった政府が進める普天間飛行場の県内移設について、無所属候補は反対を唱え、自民党候補は歯切れが悪かった。
近代国家・日本を築くために愛郷心を愛国心へつなげようとする営みは、沖縄との間で曲折を経てきた。沖縄は戦後、1952年に日本が主権を回復した際に切り離され、米軍統治下に置かれた。激しい祖国復帰運動の末に72年に日本に戻ったが、米軍基地は残った。
戦後日本に生まれた日米安保体制が、新たな「国体」ともいえるぶ厚さで、「国民」を代表するはずの日本政府の力の及びがたい存在となっていた。その象徴として、沖縄の「国民」が望まぬ「在日米軍基地が集中する沖縄」が、今日まで変わらずあり続けている。
日本復帰後もそんな苦境が変わらぬ沖縄で、「沖縄の保守」は何を守ろうとしているのだろう。
昨年急逝した知事の翁長雄志は、かつて自民党県連幹事長を務めた「沖縄の保守」だった。その翁長が晩年は普天間問題で安倍政権と鋭く対立し、「政府は沖縄県民を日本国民として見ていない」とまで語った。
「沖縄の保守」はどこへゆくのか。生い立ちとあわせて、ぜひ話を聞いてみたい人がいた。
復帰の年生まれの国会議員
自民党の国場幸之助衆院議員(46)。那覇出身で、沖縄では「復帰っ子」と呼ばれる72年度の生まれだ。
実は私も生まれは1972年。この春、東京・永田町で国場さんに会ってそう伝えると、「そうですか。うれしいなあ」と相好を崩した。
だが、同世代といえど沖縄生まれの「復帰っ子」が背負うものは大きい。かつて私が朝日新聞那覇支局にいたころ、知り合った年配の方々に「私も復帰っ子です」と言ってみたら、「ヤマト(本土)生まれは復帰っ子と言わんよ」とやんわり諭された。恥ずかしかったが、なぜそうなのかは少し後で述べる。
沖縄で「コクバ」と言えば、祖父の国場幸太郎(1900~88)の方がまだまだ名が通る。戦後の沖縄でインフラから米軍基地の工事まで旺盛に手がけ、復興を支えた建設業者だ。本島北端の森深い国頭村出身で、小学生で大工の棟梁の家に年期奉公に出て、一代で沖縄最大の建設会社「国場組」を築いた。
その孫で「沖縄の保守」を継ぐという国場さんは、衆院議員に初当選した翌年の2013年に塗炭の苦しみにまみれた。沖縄の自民党国会議員が避けて通れない、米軍普天間飛行場の移設問題での踏み絵だ。
民主党から2012年に政権を奪還した自民党は、日米両政府の合意通りに名護市辺野古沖への県内移設を進めようと、沖縄が地元の党所属国会議員5人に同意を求めた。その前年の衆院選で初当選した際に県外移設を唱えた国場氏も、石破茂幹事長に押し切られた。
自民党本部での記者会見で説得の経緯を語る石破氏の脇に5人が並び、真ん中で国場さんがうつむいていた。その様子は沖縄の地元紙に「琉球処分」に例えられた。明治初期に琉球王国が沖縄県として近代国家・日本に組み込まれていった出来事だ。