名刺をやぶかれて
国場さんは、「その頃は、地元を回ったら名刺をやぶかれました」と振り返る。「国の沖縄に対する姿勢を、なぜあそこまで高圧的に示す必要があったのか」
そんなつらい思いをしてなお、自民党の国会議員であり続ける。その「沖縄の保守」へのこだわりとは何だろう。
国場さんは保守か革新かの前に、まず「復帰っ子」であることを意識する。いまの沖縄の人口でなお半分を占める復帰前世代から、自身が「1期生」である復帰後世代にかけられる強い期待があるからだ。
「復帰前世代は、本土に留学したような先輩の方々でも、ヤマトグチ(標準語)がうまく話せない、沖縄人だから下宿はお断りといった原体験がある。だから復帰後世代に対して、同じ日本国憲法が適用されるようになったんだから、ヤマトンチュ(本土の人)に負けるな、沖縄の新しい時代を切り開いてくれという思いがあるんです」
本土出身の私が1972年生まれというだけで、沖縄で「復帰っ子」と自己紹介して、苦笑されるわけだ。
国場さんのような「復帰っ子」は、沖縄では復帰後世代の象徴として成長の節目ごとに注目され、小学校入学や成人式などで地元メディアに大きく取り上げられた。そこから国場さんは、「復帰っ子初」の県議、国会議員として政界へ進む。
そこで選んだのが、保守の道だった。
自民党の佐藤栄作政権で米軍基地をそのままに実現した復帰について、沖縄の政界はそれを認める保守と、反発する革新に割れた。国場氏が保守になったのは、佐藤と祖父の影響が大きい。
日米安保体制を受け入れつつ成果をもぎとっていく、保守のリアリズムへの共鳴からだ。
祖父は「国場組」創業者
米国との妥協の末に沖縄返還にこぎつけた佐藤については多弁を要しまい。祖父の国場組創業者・国場幸太郎について、国場さんはこう語る。
「沖縄では戦後、米軍基地の整備を次々と受注する国場組に『アメリカの手先になりやがって』という批判もありました。でも祖父は、復興にはまず県民に働く場所を作って生活させることが大事だ、将来基地が返還されれば沖縄の財産になると言っていました」
政治家を志した中学生の頃、そんな祖父を尊敬するという数学の教師に出会った。高校生の時には、祖父が逝くと地元メディアはこぞって大きく報じた。
「コクバってのはこういう歴史を背負ってるんだな、とルーツを突きつけられた感じでした」
では、国場さんは「沖縄の保守」として、日米安保体制下の米軍基地を受け入れつつ、どんな成果を得ようというのか。
代償としての振興策には限界がある。それは、復帰後も基地返還が進まない中で米軍関連の事件・事故が続き、人権問題として県民の反発が収まらない現状が示しているのだが……
国場さんは「沖縄の保守」の役割を、「国益と県益の重なりが生まれるよう、米軍基地の負担軽減に向け、政府と粘り強く交渉すること」ととらえている。「国益と県益の重なり」の追求には、愛郷心を愛国心につなげようとする近代国家の営みに通じるものがある。
そして、その営みは「日本の保守」である自民党政権との間でこそ可能だと考えてきた。なぜなら、島に生きて歴史を重んじ、妥協によって調和を図る「保守の寛容」は、本土も沖縄も変わらないと思ったからだ。
1990年代後半、かつて沖縄問題で佐藤栄作の薫陶を受けた2人の首相を見て、その思いを強めたという。その2人とは、米軍普天間飛行場の返還について米国と合意した橋本龍太郎と、その後継として沖縄サミット開催を決めた小渕恵三だった。