この連載で私は、ナショナリズムについて、明治に生まれた近代国家・日本がまとまりを追求し続ける動きととらえ、幕末以降を点描してきた。
戦後の沖縄に舞台を移した前々回と前回では、米軍統治からの「民族の解放」を目指した祖国復帰運動に触れた。沖縄は1972年に日本に戻ったが、日米安保体制という戦後の新たな「国体」にはめ込まれ、「在日米軍基地が集中する沖縄」となって今に至ると書いた。
祖国復帰運動を率いた政治家・瀬長亀次郎(1907~2001)を知る人々を、私が沖縄に訪ねたのは今年2月の下旬。ちょうど在日米軍基地問題の焦点である普天間飛行場の県内移設をめぐる県民投票の最中だ。
移設先として、政府が「抑止力維持と基地負担軽減の両立を満たす唯一の選択肢」とする名護市辺野古沖の埋め立てに対し、県民が示した意思は、投票率5割超、うち「反対」は7割超だった。
戦後日本に生まれた日米安保体制という「国体」が、ナショナリズムを分断している。それは、1952年4月8日、日本が主権を回復する一方で、米軍の要衝として切り捨てられた沖縄の「屈辱の日」まで溯る差別の構造として、沖縄の人々に意識され続けている。
そうした「国体」をめぐる日本と沖縄の分断の淵源として、避けるわけにはいかない出来事がある。