運命に手繰り寄せられるように沖縄戦と向き合ってきた人がいる。東京都在住の小学校教諭、牛島貞満さん(65)だ。日本陸軍第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課している。
勲章と軍刀を身に着けた軍服姿の祖父の写真が実家の応接間に飾られていた。「立派なおじいちゃん」と聞かされて育った。6月22日の命日には毎年学校を休み、靖国神社に参拝した。
しかし、牛島さんは次第に祖父に対する周囲の評価に抵抗を感じるようになる。
「沖縄で軍のトップとして命令したことが、戦場でどんな結果をもたらしたのか。その評価をきちんとすべきだ」
中学2年からは牛島家の命日の行事に参加しなくなった。
沖縄で祖父の足跡追う
長年決心がつかなかった沖縄訪問に踏み切ったのは1994年。糸満市の旧平和祈念資料館で、自決の数日前に発した「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との牛島司令官の最後の軍令が展示してあるのを見て、あらためてショックを受けた。キャプションには「牛島軍司令官の自決は戦闘の終結ではなかった。この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」と付されていた。
牛島さんはこの後、毎年のように沖縄を訪ね、祖父の足跡をたどる。最もこだわったのは「南部撤退」だ。
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」
この牛島司令官の辞世の句には、本土決戦を信じて疑わなかった胸中がよく表れている、と牛島さんは指摘する。沖縄戦の本質は「沖縄を守るため」ではなく、「本土決戦のための時間稼ぎ」だった。だからこそ、牛島司令官は司令部を置いた首里城での決戦を避け、沖縄本島南部に撤退し、最後の一兵まで闘うことを強要した──これが牛島さんの導いた結論だ。
南部撤退によって多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生した。日本軍に対する強烈な不信は、沖縄県民の間に戦後も根強く残る。